南朝正統皇位継承論15-松良天皇、三州萩村に隠棲
松良天皇、三州萩村に隠棲
1、遠州京丸より落ち延びる
遠州京丸(浜松市天竜区春野町小俣京丸)に隠棲中の松良天皇一行は、足利幕府の探索の手が回ってきたため、各地へ落ち延びたようです。
時期は不明です。逼迫して逃走した証拠は、皇后の綾子姫が松良天皇に同行できず、遠州船明に落ち延び、そこで非業の最期を遂げられた事から分かります。
【参照】綾子姫命(松良天皇皇后)
三輪義熈著『長慶天皇紀略』には、応永5(1398)年以降、足利方の探索・攻撃が厳しくなり、応永11(1404)年には、足利将軍義持が懸賞付きで探索を命じ、関東管領・足利満兼が富士谷の領地を没収し、社寺の宝物・書類等を焼き捨てたという記録が出ています。
藤原石山氏は下記の様に述べています。
2、三州萩に隠棲
三浦家の系図には、松良天皇と皇子の美良親王が、遠州京丸から宝飯郡萩村(豊川市萩町)に隠棲したことが記録されていましたが、その潜行時期については三浦芳聖は、自身の萩村滞在の経歴(昭和20年2月4日から25年8月)から応永12(1405)年頃としていますが、確証はありません。
三浦芳聖は、三浦家の系図には、松良天皇は萩村で樵夫(きこり)に身をやつし、美良親王は宮路山で炭焼きに変装していたと述べています。
萩村に隠棲していた時期を確実に証明できるのは、萩町を流れる山陰川の上流に上賀茂神社、下流に下賀茂社があり、その下賀茂神社の応永16年の棟札に松良天皇に供奉していた地頭大江高広の名前があることから、応永16年には隠棲していたことが確実と思われます。
三浦芳聖は、この両神社を松良天皇が京都になぞらえて建立したと述べていますが、確証はありません。
上賀茂神社(豊川市萩町寺前31番地)
創建不明。祭神、別雷命(わけいかづちのみこと)、素盞嗚命。
下賀茂神社(豊川市萩町下森前)
白雉2年(651年) 鴨県主(かものあがたぬし) の一族がこの地に住居し祖神として祀ったのが始まりという。祭神は玉依姫命、素盞嗚尊。
応永17年(1410)、松良天皇が三州萩に隠棲中、長慶院法皇が播州西山で崩御されたという知らせがもたらされた。長慶院法皇に供奉していた河野左衛門尉の注進によると、
勤皇の士を募るために高野聖僧上人に扮して全国を行脚していた長慶院法皇は、応永16(1409)年秋、駐留していた播磨国(加西市)の城山で地元の武士団の襲撃を受けて殺害され、介抱も虚しく河西市青野町の西山で崩御された。
松良天皇は、河野左衛門尉の注進に接し、もはや朝廷の回復覚束なしと、第一皇子・美良親王(大宝天皇)に譲位。落飾後、成龍法皇となり、愛知県豊川市御油町西沢に萬松山大通寺薬師堂を開基して隠棲した。
落飾後、河野左衛門尉に案内され墨染めの僧衣姿となって播州西山まで行脚し、長慶院法皇の菩提を弔った。(三浦芳聖・大著250頁)
詳細は、下記を参照ください。
3、三州萩と長州萩 (明治天皇、松良天皇皇胤説)
三浦芳聖によると、松良天皇が隠棲していた三州萩から松良天皇第四皇子「光良親王」が大江氏に奉戴され、大内氏を頼って長州へ落ちて行き、出身地を忘れないため長州の方も萩と名づけたことや、3年に一回は連絡をとりあっていたという。
(三浦芳聖著『神風串呂』第140号1~2頁要約、1967年7月2日発行)
この『神風串呂』の記事を裏付ける資料「応永16年の棟札」が、愛知県豊川市萩町の下賀茂神社から発見されました。
🟠 [大江広元]-[忠成]-[忠氏]-[忠広]-[行広]-[康広]-[高広]
4、隠棲地・三州萩の神風串呂
隠谷(真庭市)-五霊神社(多可町)-河合神社(京都市)-下賀茂神社(豊川市)-松良天皇隠棲地(豊川市萩町)-公文名(菊川市)
【地文のみ掲載】
隠谷-五霊神社-河合神社-下賀茂神社-松良天皇隠棲地-公文名
【地文の解釈】(地文に地図がリンクしています。)
(1)隠谷(かくしだに、岡山県真庭市田羽根)
隠棲地を表わす。ここでは、三州萩(豊川市萩町)が松良天皇の隠棲地であったことを表わす地文。隠谷不動滝で有名。
リンクの地図は右上の「地理院地図Vector」をクリックすると見られます。
(2)五霊神社(ごれい神社、兵・多可郡多可町加美区岩座神)
主祭神 高皇産靈神(タカミムスビノカミ)。
三浦芳聖は「神武天皇御母神玉依姫命」を奉斎する「御霊神社」と述べている。(三浦芳聖大著、246頁)が確証はありません。
(3)河合神社(かわい神社、京都市左京区下鴨)
祭神、神武天皇の母・玉依姫命 河合神社HP
(4)下賀茂神社(愛知県豊川市萩町下森前)
「東三河を歩こう」(下賀茂神社)によると、白雉2年(651年) 鴨県主(かものあがたぬし) の一族がこの地に住居し祖神として祀ったのが始まりという。祭神は玉依姫命、素盞嗚尊。
加茂喜三著(『富士〝隠れ南朝〟史』富士地方資料調査会288頁)によれば、下賀茂社の応永十六年の棟札に「地頭大江高広」の名がある。
三浦芳聖の場合、神界からの霊示により真実を把握している事と、応永16年の「地頭大江高広」棟札があることなどから、松良天皇の隠棲時代に両神社が再建されたと考えることも出来よう。
三浦芳聖は、萩の「下加茂神社」、「上加茂神社」などについて下記の様に述べています。
(5)松良天皇隠棲地(愛知県豊川市萩町)
応永16年~17年頃の松良天皇の隠棲地。平成15年12月1日、「特別養護老人ホームジャルダン・リラ」が開設され往年の風景は一新された。
昭和20年(1945年)1月3日、米軍の名古屋空襲により中部国民道場兼自宅が全焼し、着の身着のままとなった三浦芳聖は、松良天皇の先蹤に倣い、2月4日妻子を連れて家族六人、愛知県宝飯郡音羽町萩村(現豊川市萩町)上近久に疎開しました。詳細は下記を参照ください。
【参照】三浦芳聖伝 37、遠祖ゆかりの萩村に疎開(№158)
(6)公文名(くもみょう、静岡県菊川市西方)
公文名は、名前を鑑定する重要串呂地文。ここでは「豊川市萩町」は、確かに松良天皇の隠棲地(隠谷)であったと鑑定している。公(おおやけ)には、朝廷・天皇・皇后の意味が有ります。
【参照】京都市西京区御陵と松良天皇御陵との神風串呂(№94)
「大倉山」-「神戸上」-「正吉」-「千種川」-「三河」-「御陵」-「松良天皇御陵」-「公文名」
串呂哲学研究ノートバックナンバー(総合)
情報拡散のお願い
**********************************
串呂主宰神は、なぜ、長期間かけて神風串呂を構築し、このように神皇正統の天皇を顕彰されるのか!この一点を徹底的に講究しますと、神風串呂の要諦が理解でき、今我々は、何を第一とすべきかが分かります。ここに日本民族の存亡が掛かっているのです。真実に目覚めましょう!
神風串呂は、神界から日本民族への目に見えるメッセージ(啓示)です。
神風串呂と神風串呂に昭示されている「神皇正統家」は日本民族の宝です!さらに研究を進めましょう!
一人でも多くの方に、神風串呂の存在をシェアして頂きますよう宜しくお願いします。
神風串呂を主宰しておられる神様は、天照大御神様ですので、串呂の存在を一人でも多くの方々にお知らせすると、天照大御神様がとてもお喜びになられます。
(出典は三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』を始め『神風串呂』『串呂哲学』『串呂哲学と地文学』『神風串呂の解明』等、通算181号(いずれも神風串呂講究所発行、1955年~1971年) を参考にして、研究成果を加味しました。)
**********************************
最後までお読みいただき有り難うございます。Facebookグループ 串呂哲学研究にご参加下さい。アップデートがすぐに分かります。
https://www.facebook.com/groups/462542897709938/
グループだけの最新情報もあります。
**********************************
串呂哲学研究ノートは、読者の皆様方の財政的ご支援により活動が維持されています。理解しやすい記事作成のために諸般の費用が掛かります。今一層のご支援のほど、何卒よろしくお願いいたします。読者の皆様方のご支援に感謝しています!