見出し画像

三浦芳聖伝 5、安楽寺の修行時代(串呂哲学研究ノート№117)

安楽寺の修行時代

1、剃髪得度・三浦慶定と改名

父・三浦市次郎の急逝による一家離散後、芳聖は、2才年下の弟と共に母親の郷里の宮崎山伝正院に預けられた。ここには、母「元子」の姉が嫁いでいて親戚であった。

伝正院

芳聖は伝正院で足掛け2ヶ月小僧の見習いをした後、若くして急逝した父親の菩提を弔うために僧籍に身を置くことになり、相談の末、伝正院と同じ浄土宗西山深草派の三河総本山「楠林山安楽寺」の小僧にやられることになりました。

大正2年(1913年)8月、伝正院の村松真随和尚(母の義兄)に連れられて安楽寺に行き、同年8月24日、富永慶法老師(後に第88世浄土宗西山深草派総本山誓願寺管長)について剃髪得度しました。

僧名「慶定」(けいじょう)、時に芳聖は数え年10才(満令8才11ヶ月)、小学校3年生の夏の日のことでありました。

画像3

楠林山安楽寺本堂(2015年消失)愛知県蒲郡市清田町

日曜院

師匠の富永慶法老師は、恵まれない環境に負けずに苦学して和尚になられた立志伝中の人物で、紛争中で騒然たる安楽寺の住職に就任した時の話は壮絶だった。本山から密命を受けた富永慶法老師は、村人にロックアウトされていた安楽寺に旅人を装って入り込み、まんまと住職に就任したという大物でした。

神界が選んだ芳聖の仏道修行の師匠である富永慶法老師の経営する楠林山安楽寺の厳しい生活環境は、数えで10歳の少年芳聖に強烈なる印象を与えたが、福祉制度の整っていない当時では、お寺の小僧になる道は、まだ恵まれている方だった。

当時、お寺の小僧になる進路を選択するケースは様々でしたが、楠林山安楽寺では芳聖以外の小僧は、ほとんどは資産家の子が修養の為に来ていたようで、昼間は学校に通って勉学に励むのが普通でした。

ところが、芳聖の場合は着替え一枚と金15銭の小遣いを持って来ただけで、後ろ盾が全く無く、家からの仕送りも一切無く、学用品代はもとより、生活費全てを自分で稼がねばならない境遇でした。

460年間続いた由緒ある旧家に生まれて、村一番の裕福な生活から惨めな「どん底生活」を身を以て味合わった芳聖は、文字通り諸行無常の理(ことわり)を骨髄に徹して覚ったと思います。

コラム・超世志のここだけの話
三浦芳聖は、数えの10才で父親と死に別れ、筆舌言語を絶する差別待遇を受けて、苦難の日々を体験する運命は、同じく10歳で父を亡くした「興国天皇(守永)」の追体験だと述べています。
(三浦芳聖著『神風串呂の解明』4頁、1965年2月1日発行)

2、峻烈なる修行の日々

当時の楠林山安楽寺の小僧の生活というのは、毎日午前3時起床で、それから約2時間、広い境内の掃き掃除をしたり、本堂や釈迦堂、書院、庫裡などの掃除、雑巾掛け(しかも今と違って極寒の冬場でも冷たい水を使って)をしました。

雑巾掛け(拭き掃除)をしていると、老師が見回りに来て桶に手を入れて見て「まだ水が濁っている。水が透明になるまで拭かねばならない。板縁を拭くのだと思わず己の心を磨くのだと思え!」と言われました。

掃除が終わって洗面が済むと、お線香をあげて朝のお勤めの読経、それが済むと午前6時頃から長老「富永慶逸師」の講義が始まる。講義の内容は曜日ごとに三部経、論語、選択集、孟子、各祖師の釈文、文章規範、唐詩選など今の大学でやるような内容でした。

そして、午前7時になると朝食、それから学校に行くのですが、それは家から生活費や着物などを送ってくる資産家の息子達の場合で、自分で生活費を稼がなければならない芳聖は、学校には殆ど行かせて貰えず、師匠のお供をして法要・葬儀について行かねばなりませんでした。

私以外の小僧は皆財産家の子が小僧に来ていました。たとえば私の直ぐ上の兄弟子は、「尾崎慶律」と云うて現在蒲郡市で山王山真教寺の住職で現存していますが、此人の親などは当時蒲郡町の町長で、愛知県会議員をしていられ、安楽寺の大総代であった「尾崎幸助」氏の四男で、明治三十五年一月元日生れの人でした。(三浦芳聖著『神風串呂解明』121号1頁)

そして、法要から帰って来ると日没のお謹めをして、午後6時から夕食、その後、午後8時までは大机を出して一つのランプの下で自習、午後8時には就寝という、世にも稀なる峻烈そのものの修行の毎日でした。

僅か十歳の幼少乍らも此の境遇の急変転に魂のドン底から「諸行無常、是生滅法」を痛感させられました。而して子供心にもこのやるせない気持を何卒して一心不乱に修行して「生滅滅己寂滅為楽」の境地に到達したいものと、不許葷酒入境内の厳格なる戒律のもと、又世にも稀なる峻烈なる富永慶法老師に名実共に命懸の修行をし、満五ヶ年の間に一通りの宗乗、余乗及論語、孟子、大学、中庸、文章規範、唐詩選等の学を修め・・・ 。  (三浦芳聖著『姓名鑑定秘法』5頁)

3、お経を覚える超記憶法

小学3年から法要で読経
安楽寺での生活は、厳しい修行だけではなく、数え年10才、小学校3年生の芳聖が、自分の生活費を稼ぐため、老師のお供で、檀家の法要や葬儀に付いて行ってお経を読むのが主な日課でした。

その為、師匠の富永老師が最初に行ったのは、小学校3年生の芳聖にお経(浄土三部経と呼ばれる『仏説無量寿経』、『仏説観無量寿経』、『仏説阿弥陀経』の三経典)を覚えさせる特訓でした。

その特訓は、難しい漢字を教えている時間的余裕が無いので、老師が読んだお経を口移しに耳で聞いて覚えるという、今では想像も出来ないスパルタ式の学習法でした。

口移しに耳からお経を聞いて、同じ箇所を3回教えてもらう間に覚えないと体罰が待っていて、ひどい時には、お寺の池に投げ込まれたこともありました。お経には宗派独特の節回しがありますので、その通りに覚えるには、かなりの記憶力が要求されます。

今なら児童虐待で大変な事になる所ですが、福祉制度が無かった当時は、それが当然のように許されていました。見方を変えると、厳しい特訓は、生活のための職業訓練であり、耳から聞いたことをそのまま記憶するという能力開発でもありました。

これは「鉄は熱いうちに打て」という諺通り、人間には秘められた能力があることを証明したようなものです。また芳聖は、小学時代から老師について法要に行ったお蔭で、宗教家としての非凡な能力を身につけることも出来ました。

宗教家(人類の指導者)として必要な「血の通った人間学」を学んだのです!

お寺での厳しい修行、ことに読経や法要などは、将来、神皇正統嫡皇孫として神道祭祀の厳修に打ち込まねばならぬ芳聖にとって、欠かすことの出来ぬ修養であったと思います。

見事その特訓をクリアーし、お経を覚えた芳聖は、生活費を稼ぐために法要について行き、頂いたお布施はお寺に収めて生活費に当て、引出物のお饅頭は門前のお店に買いあげてもらって、学費や小遣いに当てました。

当時の小僧のお布施は一つが金十銭か五銭位でありましたが、之等は師匠の方へ納められ、引出物の砂糖とか饅頭は私の方へ頂けました。私はこの砂糖や饅頭を門前の店の人に安く買って貰って学費や小遣いに当てました。
(三浦芳聖著『神風串呂解明』121号2頁)

安楽寺の修行の中には、竹垣を編んだり、銀杏を収穫したりする、いわゆる作務もありました。

4、瞼の母の教訓-甘え心断ち切る!

🟡瞼の母を訪ねる

お寺の生活にも少し慣れた頃、師匠・富永慶法老師の許可を得て、芳聖が、母や幼い弟妹を喜ばせようと、法要で貰ったお饅頭まんじゅうを持って、母の郷里、岡崎市明見町田代の河合家を訪ねて行った時のことです。

既に従弟いとこの代となって久しい河合家の屋敷の一隅に、母子三人でひっそりと暮らしていた元子さまは、芳聖の顔を見るや驚き、幼児二人を連れて逃げるように家の中に入り、戸を閉めて芳聖を中に入れず、「何しに来た?」とおっしゃったのです。

💖元子さまは、芳聖がお寺の厳しい修行に耐え切れず、里心がついて逃げ帰って来たと勘違いしたのだろうと拝察しています。

芳聖が「法要で貰ったお饅頭まんじゅうを食べて貰おうと持って来た!」と告げると、元子さまは「饅頭をそこに置いて、早くお寺に帰れ!」とおっしゃって、芳聖に会おうともしなかったのです。

その時芳聖は、当時、この世で唯一の心の拠り所であり、まぶたの母とも恋い慕う、その母の思いもよらぬ冷淡な対応に、かつて尊良精神をねつっぽく語りたまいし同じ母とは思えず、悲しさが胸いっぱいに満ち、絶望のあまり生きる勇気を失ってしまったのでした。

🟡小僧、早まるな!

母に言われるままに、お饅頭まんじゅうを玄関に置いて帰路についたものの、芳聖は、もうお寺には帰る気にならず、その日の夕刻、林の中の木に縄をかけて首吊り自殺をしようとしたのです。

ところがその時、幸運にも芳聖は、たまたま通り掛かった男性に助けられたのでした。その男性は、近くの食堂に芳聖を連れて行き、夕飯をご馳走してくれた上に、親身になって芳聖の辛い身の上話を聞き、

あなたのお母さんは、あなたが僧侶になった以上、家族の事など心配せず、また甘え心を断ち切って、立派な僧侶になるよう修行に励んで欲しいと考えて家に入れてくれなかったんだ!あなたの将来をまことに思って下さっているからだよ!思い違いをして自殺なんかしてはいけない!お寺の修行は辛いだろうが、一日も早く立派な和尚さんになるよう頑張りなさい!

と、芳聖が自殺を思いとどまるよう諄々じゅんじゅんさとして、お寺まで送って来てくれたのです。

🟡甘え心を断ち切る!

🧡この日の母の冷淡な対応は、少年芳聖にとってまことに辛い体験でしたが、甘え心を断ち切って独立心や忍耐力を養い、この世を雄々しく生きぬくための尊い教訓となったのでした。😊💝💯

5、急性肺炎で臨死体験

芳聖は、このお寺の小僧時代に流行性の感冒(インフルエンザ)に罹り、急性肺炎となり、死亡した事がありました。詳しい年月日は不明ですが、小学校3~4年の事だと思います。医師も認めた死亡でした。

その時、母「元子」が危篤の電報を受取り、死後数時間を経た後に、安楽寺に駆けつけてきて、芳聖を抱きかかえて「慶定!慶定!」と泣きわめくように名前を呼んだとき、母の涙が芳聖の口に入り、奇跡的に息を吹き返し、芳聖は蘇生し早く全快しました。

芳聖は、この時に霊界を見てきたと言っていました。今日でいう「臨死体験」をしたようです。

6、兄弟子のいじめに遭う

何処の世界にも、どんな時代にも、いじめは付きものですが、安楽寺にも芳聖をいじめる兄弟子がいたようです。

お寺での修養を親から強制されて、いやいや小僧をやっていたからでしょう、ストレス発散の為に、幼い芳聖に陰湿ないじめを繰り返す兄弟子のせいで、芳聖の片耳は鼓膜が破れて聞こえなくなってしまいました。

兄弟子から、賽銭箱のお金を盗むよう強要されたこともありました。後ろ盾が全く無く、お寺以外に生活の場のない芳聖は、どんなことがあっても、お賽銭を盗む訳にはいきません。

兄弟子の誘いを断れば、また暴力を振るわれる。幼い芳聖の辛い立場を思うと悲しくなりますが、そうしたことも生まれてくる前に、芳聖が自分で計画した修行の一つだったのかも知れません。

7、小学校を優等で卒業

楠林山安楽寺は浄土宗西山派の三河総本山だったので、檀家の数が1200戸有り、当時、平均すると、法要が毎日3件以上、3日に一度は葬式がありました。

芳聖は、生活費を稼ぐ為に師匠について行かねばならず、毎日学校に行くことが出来ず、小学校4年・5年・6年の3年間で、一年間に90日(登校日の約3分の1)出席したのが一番多い年でした。

今なら長欠児童として問題になる所ですが、この時代は、家庭が貧しく家の手伝いをする為に学校に行かせてもらえない子供や、就職するために中途で学校をやめる子供もいた時代ですから、許されていたようです。

幸いにも、芳聖の通った宝飯郡蒲郡北部尋常小学校は、最初は安楽寺の北隣の「清田町門前」にあり、大正5年9月に東隣りの「清田町間堰」の現在地に新校舎が竣工されました。いずれも安楽寺の隣接地で通学には便利でした。

安楽寺
愛知県蒲郡市清田町(地図マピオン)

優秀な芳聖は、成績は常に一番で、大正6年(1917年)3月、宝飯郡蒲郡北部尋常小学校を卒業するとき、宝飯郡長から「品行方正学術優等」の表彰状と賞品を貰いました。芳聖は、新校舎での最初の卒業生です。

8、父の位牌を作り菩提を弔う

芳聖は、こうした恵まれないお寺の小僧時代、乏しいお小遣いの中から費用を捻出し、仏壇屋に頼んで父の御位牌をつくり、ひそかに父の菩提を弔い孝養を尽くす、まことに孝心の厚い少年でした。

芳聖の父・三浦市次郎の戒名は「無学宗心居士」といいます。無学とは、これ以上学ぶ事はないという、最高位の戒名であるということです。

また、芳聖は、父の遺言「奥郡の蔵王山より木曾の三浦山を見よ! 」が気になって、お寺の許しを得て、田原町の蔵王山に昇って木曽の三浦山を眺めたこともありました。

9、盲腸炎を患うも温熱療法で完治

さて、芳聖が数えの14才の大正6年(1917年)五月下旬、芳聖は盲腸炎を患いました。ところが、いくら腹が痛いとお寺に訴えても、当時は、国民皆保険制度の整っていない時代でしたから、治療費の無い芳聖は、医者に連れて行って貰えませんでした。

当時はそれが普通でした。芳聖があまりにも痛がるので、お寺からの連絡で6月1日、「おまんさ」という名前の母方の叔母さんが、看病に来てくれました。

この叔母さんの治療法は、今の常識では到底考えられないもので、「こんにゃく」を熱湯で温めて、それを直接患部に繰り返し当てるという温熱療法でした。この温熱療法は堪えられない程熱かったようですが、その治療を繰り返しているうちに、盲腸炎は不思議に治ってしまいました。

10、楠林山安楽寺の神風串呂

(1)安楽寺の師匠が「富永老師」であることを昭示する神風串呂

(2)三浦芳聖が楠林山安楽寺で仏道修行したことを昭示する神風串呂


🟣バックナンバー総合

🔴情報拡散のお願い

この記事に到着された貴方様とのご縁に感謝しています。これは皇祖神・天照大御神から地上に派遣された神皇正統嫡皇孫・三浦芳聖が解明した神風串呂や三浦芳聖伝の紹介記事のバックナンバーです。

三浦芳聖が解明した神風串呂には、日本民族の進むべき道が、明確に示されています。日本民族の危急存亡の時に当たり、一人でも多くの方に読んで頂けるよう、この情報を拡散下さいますよう、宜しくお願い致します。

串呂主宰神は、なぜ、長期間かけて神風串呂を構築し、このように神皇正統の天皇を顕彰されるのか!この一点を徹底的に講究しますと、神風串呂の要諦が理解でき、今我々は、何を第一とすべきかが分かります。ここに日本民族の存亡が掛かっているのです。真実に目覚めましょう!

2千年以上の長年月を掛け神風串呂を構築された、串呂主宰神・天照大御神様のご苦心と、生涯を掛けて神風串呂を解明された三浦芳聖師のご努力が、日本国と日本国民の皆様の幸せの為に生かされますよう願ってやみません。
神風串呂は、神界から日本民族への目に見えるメッセージ(啓示)です。

神風串呂と神風串呂に昭示されている「神皇正統家」は日本民族の宝です!さらに研究を進めましょう!

一人でも多くの方に、神風串呂の存在をシェアして頂きますよう宜しくお願いします。

神風串呂を主宰しておられる神様は、天照大御神様ですので、串呂の存在を一人でも多くの方々にお知らせすると、天照大御神様がとてもお喜びになられます。

出典は三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』を始め『串呂哲学第一輯』『神風串呂』『串呂哲学』『串呂哲学と地文学』『神風串呂の解明』等、通算181号(いずれも神風串呂講究所発行、1955年~1971年) を参考にして、研究成果を加味しました。

🟡前号(№116)
🟢次号(№118)

*******************
🟡最後までお読みいただき有り難うございます。
串呂哲学研究会 鈴木超世志
ブ ロ グ 串呂哲学研究会
メ - ル(shinpukanro024@yahoo.co.jp)
*******************

読者の皆様方のご支援に感謝しています!三浦芳聖先生の著書を復刻し、地文の住所を新住所に改め、プロのグラフィックデザイナーに依頼して串呂図のCG化を推進しています。今一層のご支援のほど、何卒よろしくお願いいたします。