三浦芳聖伝 4、諸行無常の嵐(串呂哲学研究ノート№116)
諸行無常の嵐
1、父・三浦市次郎
芳聖の父・三浦市次郎は、明治7年(1874年)九紫火星甲戌4月7日生まれで号を宗心といいました。東京法学院(中央大学の前身)に学び、明治32年(1899年)2月、26才で河合元子と結婚、明治37年(1904年)2月、31才で家督を相続するや、代々続けてきた農業は小作人にまかせて、事業家を志しました。
手がけた事業の内、分かっているのは、明治42年(1909年)数えの36才で、「額田郡豊富村大字牧平字マカガイツ」に店舗兼住宅を新築し、米穀肥料をはじめ、荒物、雑貨、太物、さては味噌、醤油、茶菓まである萬屋を開業し、直接店舗で販売するのは勿論のこと、従業員を何人も雇い入れ、三河地方一帯に肥料や飼料などを手広く販売する事業です。
神皇正統家の将来のために、経済的基盤を確立しようとして、この販売業をはじめたものと思われます。
三浦市次郎は大変心の広い大人物だったようで、家が貧しく生活に困窮していた男性従業員が、業務中、預かった店の大金を落とした時、普通なら狂言ではないかと疑いたくなる所だが、全く取り乱すことなく「世の中にはそういう事もある。これから気をつけよ!」と注意しただけで、何も咎められなかったという逸話が残っている。
その従業員は、その温情あふれる措置に、男泣きに泣いていたそうだ。
また、家督を相続した時、31才という若さで、腹違いの妹の為に三浦家の財産を折半して均等に分け与え、新家を出してあげたので、それまで市次郎につらく当たって来た継母が、この措置に大変恐縮し、それまでの所業を後悔したそうだ。
こうしたエピソードを聞くにつけ、芳聖の父・三浦市次郎は並大抵の人物ではないと思われる。三浦市次郎は、明治10年(1877年)数えの3歳の時に母親を病気で亡くし、継母に育てられたのだが、何があったのか、少年時代に家出をして行方不明だった時期があったと聞いている。三浦市次郎は幼少時から苦労しているのだ。
2、一子相伝の系図と父の遺言
三浦市次郎は、1913年(大正2年)6月下旬、富士登山から帰宅後、体調が思わしくなく、地元の医師の往診を受けつつ病床に臥せっていたが、病状は一向に回復せず、6月30日の朝、死期を悟ったのか、学校へ行く挨拶に来た芳聖に、学校を休んで看病するよう命じた。
そして、他の兄弟が学校へ行ってしまうと、枕元で看病している芳聖に、三浦家に一子相伝に伝えられて来た「大切なもの」が埋めてある場所を教えて、次のような内容の話をした。
そして、その夕刻、午後5時頃、三医師の看病もむなしく、臨終を告げられたので、部屋の襖を開け放って、家族・親族等がそろって、念仏を唱えながら口元に末期の水をつけて見守る中、
三浦市次郎は、その今わの際に、突然、上半身を起こして、ガバッと布団の上に座ったかと思うと、 「奥郡の蔵王山から木曽の三浦山を見よ!」と絶叫してガクッと息を引き取ったのでした。
不思議な事に、この最期の絶叫は、その場に居合わせた人々の耳には「わぁ、わぁ、わぁ、わぁ〜」 という意味不明の音声にしか聞こえなかったが、芳聖の耳には明瞭に「奥郡の蔵王山から木曽の三浦山を見よ! 」と聞き取れたというのです。
*奥郡とは、今の愛知県田原市付近(元渥美郡)の事です。
これは常識では理解できない事ですが、芳聖の耳には、はっきりと聞こえたようです。
この父親の最期の絶叫「奥郡の蔵王山から木曽の三浦山を見よ!」は、芳聖の耳にだけ聞こえた「神風串呂」解明の糸口になる啓示(極秘伝)でしたが、このとき数え年10才の小学生であった芳聖には知る由もありませんでした。
3、父の急逝、一家離散、お寺の小僧に
三浦市次郎は、大正2年(1913年)6月、富士登山から帰った後、急に体調を崩して病床に付し、家族は、百方手を尽したが、当時の医療では残念ながら冶すことが出来ず、遂に6月30日に逝去された。数えの40歳でした。
この時芳聖は、数えの10才(小学校3年、満齢で8才と9ヶ月)でした。父・三浦市次郎の戒名は、無学宗心居士で、これ以上学ぶ事はないという、最高位の戒名であるという。
(宗心は大宝天皇の符号でもある。共に甲戌年生まれ。)
芳聖の父・三浦市次郎は、由緒ある三浦家を新しい時代に見合った家にするために、何とかして事業で成功して、三浦家を興そうと、先祖伝来の田地・田畑・山林・家屋敷を抵当に入れて、莫大な資金を借り入れ、名古屋や岡崎で、いろんな事業を手がけたが、ほとんど失敗して当時のお金で18万8千円、今の金額にして何十億円という債務が残った。
父親が死去したあと、事業に投資したという莫大な債務を支払う為、先祖伝来の山林、田地田畑、家屋敷、屋財家財ことごとく全ての財産が競売に付され、三浦家は破産、一家離散となり、三浦芳聖は、しばらくの間、2才年下の弟と共に母親の郷里の河合家の親戚に当たる、虎洞山(宮崎山)伝正院に預けられました。
その後、芳聖は、愛知県蒲郡市清田町の浄土宗西山深草派三河総本山「楠林山安楽寺」の小僧にやられ、1913年(大正2年)8月24日、富永慶法老師(後に第88世浄土宗西山深草派総本山誓願寺管長)について剃髪得度、僧名「慶定」(けいじょう)、時に数え年10才(満令8才11ヶ月)、小学校3年生の夏の日のことでした。
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出典は三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』を始め『串呂哲学第一輯』『神風串呂』『串呂哲学』『串呂哲学と地文学』『神風串呂の解明』等、通算181号(いずれも神風串呂講究所発行、1955年~1971年) を参考にして、研究成果を加味しました。
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串呂哲学研究会 鈴木超世志
ブ ロ グ 串呂哲学研究会
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