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【人物ルポルタージュ】29万票の金利~山田太郎と「表現の自由」の行方 <中編>

【『ドカベン』答弁で始まった山田への期待】

「マンガ・アニメの表現の自由」を守るために活動する参議院議員。そんな言葉で表現される山田の議員生活は波乱に満ちていた。マニフェスト作成を手伝った縁で、参院選でみんなの党の比例代表の候補者名簿に名前を連ねたのが10年。

みんなの党の当選者は7名で名簿順位10位だった山田は落選となった。12年12月、同党の桜内文城が衆院選に立候補することになり辞職。突然繰り上げ当選が決まった。

 慌ただしく始まった議員生活。誰も知らない補欠議員に過ぎなかった山田がオタクにその名を知られたのは、13年5月8日の参院予算委員会で、与党によるマンガを初めとする創作物へも踏み込む改定案の提出が危惧されていた児童ポルノ禁止法について質問したことだった。

「行き過ぎた自主規制が行なわれて、日本の漫画やアニメが面白くなくなる、また廃れてしまうのではないかと危惧しております」

 こう問われた麻生太郎財務相は、少し苦笑しながら「財務省に持ち込まれても、ちょっと所管外という感じがいたします」と、答えた。場違いに見える質問を上手くかわした麻生。山田は、そんなことは意に介さず、さらに続けた。

「実は、水島新司先生の野球漫画『ドカベン』、つまり、私と同じ名前の山田太郎という人が主人公の漫画なんですけれども、その中でも8歳以下のサチ子という妹が入浴シーンで出てきておりまして、こんな本なんかも発禁本になる可能性もあるんです」

 山田が、この問題を限られた質問の時間で取り上げた理由。それは娘がコスプレや同人誌を趣味としていて、自宅で娘の友人たちが集まっては趣味の話題に花を咲かせる姿を、幾度も見ていたから──という話は、ずっと後になって知った。もっとも、この話も「口をすべらした」といって、二度と話そうとはしない。

 この質問を契機として、山田は一躍「オタクの味方」として、限られた人々には著名な期待される人物となった、15年に改定された児童ポルノ禁止法において、与党案のマンガやアニメなどの創作物も規制対象とする目論見が頓挫したのは、山田の功績と記して間違いない。

そして、オタクの期待に応えるかのように、コミックマーケット開催時には、会場近くで演説も行うようになった。

 そんなオタクからの期待とは裏腹に、山田の国会議員としての地位は危うかった。14年11月、衆院選への方針をめぐって内部対立の深まった「みんなの党」は解党を決定。

山田は新たに松田公太参議院議員が立ち上げた「日本を元気にする会」に参加する。党勢は、まったく芳しくなかった。結成から1年も経たない15年12月には国対委員長の井上義行が離脱。翌年に参院選を控えて所属議員は5人以下となり政党要件を喪失することとなった。

16年1月に「日本を元気にする会」は「維新の党」と統一会派を結成するも、すぐに解消。もはや、山田の議員生活も僅かで終わりなのだろうか。あるいは、どこかの党から出馬するのだろうか。そんな噂にもならない話ばかりがなされていた。

 そんな最中の2月14日。山田は、秋葉原で開かれた支持者向けの集会の中で「表現自由を守る党」の立ち上げを宣言する。この団体の目的は、自身の支持者を可視化しようとする山田の新たな手段だった。

 それまでも、山田は幾度かの集会を開いていたが、参加者は多くとも100人を超えることはなかったと記憶している。そうした中で立ち上げた、この党はメールを送るだけで登録できるサポーターを募った。

「表現の自由を守る」という趣旨に賛同していれば、いまだ山田が所属していた「日本を元気にする会」の政策に賛同していなくてもよいという、会費無料のバーチャル政治団体ともいうべきものだった。

この立ち上げは、ネットでは瞬時に話題になったものの、続々とサポーターが増えるというわけにはいかなかった。

 1カ月あまりを経ても、メールでサポーター登録をしている人は1万5,000人程度であった。単にメールを送るだけでも、である。全国にいるであろうオタクの数に比べれば、あまりに少なかった。

 集会では、集まったオタクからは「参院選で勝てるのか?」という不安に満ちた質問が飛んだ。この頃、山田は参院選に出馬するために様々な手段を模索していた。最良の手段は10人の候補者をかき集めて「日本を元気にする会」から出馬すること。

 代表の松田が、政治への興味を失っている中で、それには現実味はまったくなかった。3月に開催された支持者向けの集会では「どこの政党と組むべきか」を、ストレートに参加者から意見を聞くまでしていた。

 15年の参議院議員資産公開をみると、山田の資産は2,171万円。十分とはいえずとも、選挙活動にかかる費用を自分で賄える程度はある。

 それでも、地盤も支持母体もない、無名の一議員を受け入れる政党は見当たらなかった。4月には著著『表現の自由の守り方』(星海社新書)を上梓していた。Amazonレビューでは、高評価の本になってはいたが、それも選挙にはまったくといってよいほど寄与していなかった。

【2日で辞めた、おおさか維新の会。そして】

ようやく事態が動いたのは、ほぼ候補者が出揃った4月25日のことであった。山田は交渉の末に「おおさか維新の会」に入党し比例区から出馬することになったのである。

よもや出馬を断念せざるを得ないかもしれない。そんな観測もあった中で、これは支持者にとっては、待ちに待った吉報だった。

 だが、話はすぐに暗転した。

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