女のコがパンツを脱ぐ「イカ天」。男のコは気づいていたガールズバンドのエロス
こちらの文章は、拙著『1985-1991 東京バブルの正体』(MM新書)からの抜粋です。
とりあえずバンドやろうぜ!
バンドメンバー募集。当方、ボーカル。
こんな募集広告も、21世紀になってパッタリとみなくなった。いや、20世紀
でも、こんな募集広告は極めてまれだった。ギターもドラムも楽器はタンバリンかカスタネットくらいしかできないから、とりあえず自分がボーカルでメンバーを募集する、それが「痛い」という意識は、現代でも共有されているのか。
とにかくバンドを組む。それが80年代の中高生の通過儀礼のごとき出来事であった。このバンドブームというものは、戦後幾度もおきている。第一次バンドブームは、70年代後半。サザンオールスターズやRCサクセションの登場が、それである。それに続く第二次バンドブームは、ちょうどバブル時代に重なっていた。ブルーハーツやユニコーン、レベッカにプリンセス・プリンセスなど80年代後半を席捲したバンドは挙げればきりがない。
この第二次バンドブームの特筆すべき点は、バンドの演奏を楽しむのではなく「バンドやろうぜ!」という中高生が、どっと増えたことである。その背景にあったのは、音楽がより身近なものになったことである。世界最初のCDプレーヤー・CDPー101をソニーが発売したのは1982年10月。この時は、16万8000円もした高級品も次第に値段は下がっていった。
また、各社が競合していたミニコンポは、中高生にとっては高校合格とか、なにかのお祝いで買って貰える程度には値段が下がっていた。1979年に発売されたウォークマンも80年代には、広く普及していた。80年代には、音楽はいつでも、どこでも気軽に聞くことができるものになっていたのだ。
そこに流れるロック、そしてパンクを通じて音楽が誰でもできるもの。バンドは組めるものという意識が広がっていった。とりわけギターは「コードさえ覚えればなんとかなる」と喧伝されていたが、その必要性すらもなくなった。市販されるバンドスコアでは、TAB譜が当たり前になりコード表を見てCだのFだのを覚えなくとも、指の置き方を理解できるようになり、グッとハードルは下がったのである。
こうして、中学や高校では、いくつものバンドを組んでいるヤツが当たり前という状況が生まれた。それらをベースに勃興したのは、誰も考えつかなかった最先端を追い求めるインディーズバンドの登場だった。
「女のコがパンツを脱ぐ!!」噂でブレイクした「イカ天」
1989年2月11日、マニアックな番組が覇を競っていた土曜深夜のテレビ欄に、伝説の番組が登場した。「イカ天」こと『平成名物TV 三宅裕司のいかすバンド天国』である。毎週土曜深夜12時30分から放送された、この番組は10組のインディーズバンドが登場。萩原健太や中島啓江らの審査によって勝ち抜いたバンドが、チャレンジャー賞バンドとなり前回のイカ天キング(チャンピオン)バンドと対決。勝った方がイカ天キングとなり、番組途中からは5週勝ち抜くとメジャーデビューが約束されるようになった。
この番組が、話題となったのは第一回の放送で起こったハプニング。完奏できなかったガールズバンド「ヒステリック」が「バカヤロー! ズボン脱ぐぞ!オラ!」と叫んで、パンツまで脱いでしまったのである。肝心の部分は、カメラマンの妙技で電波には乗らなかったのだが、放送中に女のコがパンツを脱いだという噂が噂を呼び「なにが起こるかわからない番組」として、チャンネルを回す人は急増した。
そこで視聴者が見たのは、得体の知れない個性的なバンドの数々だた。奇妙な出で立ちで谷崎や太宰の一節を歌う「人間椅子」。なぜか股間モッコリのレオタードスタイルで歌う「ブラボー」。バックで琴の音色を流す「マサ子さん」。そして「たま」である。
こんな奇妙な番組がウケた理由は、個性と音楽性に加えて登場するバンドと視聴者、観客との距離の近さだったことを、番組プロデューサーだった田代誠氏は指摘している。
『イカ天』がウケたのは、仲間意識っていうかな、出てくるバンドが手を伸ばせば届くところにいるアイドルってポジションがいいんだと思います。それに、バンドの音楽的な、レベルがかなり高い。もちろんなかにはへたなのもいますけどね(笑い)。彼らは自分たちがどうすればウケるかってことをわかていて。ショーを意識したステージになっているんですよ。それが女のコたちにウケている理由ですね。(『週刊テーミス』1989年7月12号)
「イカ天」のブレイクにより音楽の裾野は、めざましく広がった。ライブハウスが音楽を聴きに行く場所として一般化したのも、この頃だ。ライブハウスは、それよりもずっと前から存在していたが、限られたロックファンのための場であり、一般人や中高生にとっては近寄り難い場所だった。
「かなり閉鎖的で、流行とはかけ離れたごく一部の人たちの共有の場というイメージがあった(『宝島』1989年8月号)」のが、ライブハウスの実態であった。そんな閉鎖的な場に「イカ天」の盛り上がりによって、中高生が足を運ぶようになったのである。とにかく、中高生どころか、オジサンやオバサン。OLから小学生までをも巻き込んで、あちこちで様々なタイプのバンドが群雄割拠しているのが、1989年の「シーン」だったのだ。
もうひとつのバンド震源地「ほこ天」
そうしたシーンの中で「イカ天」と並ぶバンドブームの震源地と目されていたのが、日曜日の原宿の歩行者天国「ほこ天」であった。もとより竹の子族のムーブメント以降、原宿は「一世風靡セピア」の路上パフォーマンスが話題となったり、新たな文化の震源地となっていた。日曜日になると歩行者天国には、家出娘から反天皇制運動までもが集結し、得体の知れない空間が生まれていた。
とりわけ存在感を放っていたのが、路上を埋め尽くすバンドたちであった。その盛り上がりは、収まるところを知らず「美空ひばりさんのお通夜の日にも元気に明るく歌って」いた(『週刊明星』1989年7月20日号)。この「ほこ天」からは「ジュン・スカイ・ウォーカー」が生まれ「THE BOOM」もデビューした。そんな場には、気軽に会いにいけるバンドがいっぱい。次にブレイクするバンドを、真っ先に見つけようと青少年が集結していたのである。
最盛期には、70とも90ともいわれる数のバンドが、日曜日の原宿に集結していたともいわれる。その中には、一回のライブで1000人あまりも集める人気バンドも存在した。
そんな人気の一方でバンドの活動は地道だった。まず欠かせないのは場所取りである。場所取りは早い者勝ちが暗黙の了解だった。土曜の深夜から機材車を止めて場所取りしたり、機材車がなければ道路にガムテープでバンド名を書くのだ。だから、バンドの朝は早い。ファンのほうも心得ていて、朝早くからやってきてふれ合うのが当たり前だった。
だいたい午前中は、フラッグを取り付けたり機材を降ろしたりの準備に費やされるわけだが、この機材も発電機とアンプなど5万円ほどを3バンドくらいが共同で使っていた。そんな準備や昼食の時間にメンバーと気軽にふれ合えるのが「ほこ天」の魅力だった。そして、そこに集った人々はバンドがブレイクしていく時間までをも共有していたのだ。
男のコは気づいていたガールズバンドのエロス
そんな猫も杓子もバンドをやる時代。1989年「世界でいちばん熱い夏」や「Diamonds」がヒッとしていた「プリプリ」に憧れてバンドをやる、女のコも多かった。いわば、バンドブームはガールズバンドのブレイク期でもあったのだが「プリプリみたいにかわいく、かっこよく」を目指す女のコと違うものを男のコは見ていた。
90年代にはいってブレイクした「ピンクサファイア」なんか、まさにそれだ。ハードロックなのに、極めてスケベ心をそそる装いをしているものだから、男のコは音楽にノリながら視線は谷間やスカートに釘付けだったというのが、偽らざる真実だ。
メンバーが全員ミニスカートのサイケファッションのTWIGGYという4人組のガールズバンドもあった。当時の二大男性情報誌である『スコラ』は1989年11月23日号で『GORO』は、9月14日号で、それぞれガールズバンドを特集しているがテーマは、そのエロス。
『GORO』なんてNOKKOは「露出度満点」と記し、今井美樹は「ツアーでは絶対女性誌では拝めない超ミニで踊りまくる」とまで。既にメジャーデビ
ューしていたガールズバンドの先駆け的存在であるSHOWーYAに触れた部分では「こぼれおちそなオッパイに真紅のバラの刺青をまず思い浮かべる」とまで。バンドブームの背景には、いわば「この支配からの卒業」への渇望があったことは、想像に難くはない。
そして、若者たちは音楽にノリまくることで性欲をも解放していたのである。
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