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祖父の「これでうまいもんでも食え」が理解できなかった話

小さいころの夏休み、田舎に帰省するたび、祖父がお小遣いをくれた。決まって、こう言う。

「これでうまいもんでも食え」

これが理解できなかった。
当時の僕はテレビゲームの楽しさに気づいてしまっていて、寝ても覚めてもゲームゲームゲーム。同じソフトをクリアすればリセットし、何十回も飽きずに繰り返す毎日。当然、新しいソフトを欲しくならないわけがない。だから、僕は理解できない。何故貴重なお金を飯に遣わにゃならんのか、もっと楽しいことがあるじゃん(今から考えるとハチャメチャにバチあたりなので高校生の時に派手に転んで脱臼してひどい目に遭ったのはそういうことかもしれない)。
祖父のくれるお小遣いは金額にして数千円であり、少年の頃の自分にとっては大金も大金である。それはもう嬉しかった。だって新しいソフトが買えるから。だから、もらった瞬間は毎回、「わあ、ありがとう!」って幼心に嬉しい気持ちにはなるのだが、直後に「飯を食え」と言われ、「ん? 何故?」となっていた。

あの頃祖父は田舎の専業農家で、叔父夫婦と同居していた。頑固者で、同じく頑固者の父とは馬が合わず、よく喧嘩していた。祖父の家は他県の町はずれにあったため、僕の家から遊びに行くとなると車で数時間はかかる。ほとんど夏休みみたいな長期休みにしか訪れることがなく、ちょっとした旅行のような感じであった。遊びに行くと同年代の従妹がおり、テレビゲームは無かったので、スイカ、虫取り、花火、などなど、「ザ・日本の古き良き夏休み」を謳歌することになる。
いろいろあって、今祖父は一人暮らしをしている。遊びに行ってももう従妹はいない。僕は詳しい事情は知らないし、聞くこともしなかった。
でも、「あの頃の夏」は今も変わらず、僕の中にある。

祖父のくれたお小遣いは、幼い僕には扱える金額ではなかったので、両親がそのほとんどを貯めて定期預金にしてくれていた。あれから十年以上が経ち、僕は両親に渡した祖父からのお小遣いがどこへ行ったのか、気に留めることすらも忘れてしまっていたのだけれど、たまたま帰省した何でもないある日、母親が僕に見慣れない赤色の定期預金通帳を渡してこう言った。
「おじいちゃんからもらってたお小遣い、ここに貯めてあったから好きに遣いなさい」
カバーの色が少し日焼けした赤い通帳には、決して多くはないがちょっとした買い物くらいならできそうな額が入っていた。なんと、あの時のやつこんなところへ行っていたのか! と感慨深くはなったものの、その時は特に急に必要なこともなく、なんとはなく手をつけることもしなかった。けれど、しばらく間押し入れの中で眠っていたこの通帳が、思いがけず、不思議な感覚をもたらした。

僕はいつでも、うまいものを食いに行ける。

時々、繰り返しの日常の中で、誰かと美味しいものを食べに行きたくなる時がある。それはやっぱり、美味しいものじゃなくちゃいけないのだ。だって、最高に美味しくて最高に楽しかった記憶が僕にはあるから。いままでの一番は、友人と車で数時間先の街まで行き、テレビでやっていた人気グルメ店を何件も食べ歩きしたことだ。特に「孤独のグルメ」にハマっていた友人はスキあらば五郎ちゃんの真似をして唸っていた(一口食べるとしつこいくらい必ず「おっ、いいぞぉ」って言う)。強烈に寒い日で、マイナスの気温の中凍えながら店を探し出した。旅行の別れ際みんなで、「なんか俺ら、ずっと『うまい!』って言ってたよな」と話したことが忘れられない。
僕はいつでも、これができる。

この間、僕にも甥っ子ができた。ついに自分も、お年玉だとかのお小遣いをあげる側になってしまったわけである。飛行機を使わなければ行けないような遠方に住んでいるためなかなか会う機会も無い。まあたまに会ったときにでも渡せればいいかなと考えたところで、ふと、はっとする。お小遣いをあげるとき、祖父のように、毎度何かの言葉と一緒に渡す。それ、いいじゃん、と思ってしまったのだ。今はわからないけれど、成長して大きくなったときにわかる、そんな言葉が良い。いいじゃん、あれを、やろう。

僕は考える、どんな言葉がいいか。「大事に遣え」、抽象的すぎる。「勉強頑張れ」、うーんいまいち。「欲しいもん買え」、それでいいのか。「友達を大事に」、お金を渡しつつ友達を大事にって言うのはなんかおかしくないか。ああでもないこうでもないと散々思いを巡らせて考えてみて、どうしてだろう、結局僕は「あれ」以上の言葉がないと思ってしまった。

昨今のゲームは恐ろしい。幼い少年少女など瞬きする間もなく籠絡させられてしまうだろう。僕の甥っ子も例外ではないはずだ。次に会ったときはもう任天堂スイッチの虜になってしまっていても何もおかしくはない。だから僕も「よくわからないことを言ってお小遣いをくれるおじさん」になってしまう可能性は非常に高い。いや、ほとんど間違いないだろう。でももし、甥っ子が大きくなって、誰かと最高に美味しいものを食べて最高に楽しい想いをしていたら、それはきっと、とても、幸福なことなんじゃないだろうか。

僕の言葉では任天堂スイッチに勝つことはできない。でも僕は、甥っ子に会ってお小遣いをあげるとき、自信満々な顔でこう言うのだ。
「これでうまいもんでも食え」と。

#おいしいはたのしい #おいしいはしあわせ #エッセイ #お小遣い #任天堂スイッチ #五郎ちゃん

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