ご褒美のない人生 子どものときは 努力をしたら、 結果を出したら、 誰かの力になれたら、 優しくなれたら、 大人に評価され ご褒美をもらえた。 小さなご褒美のときもあれば 大きなご褒美のときもある。 それがほしくて、 与えられたくて、 スタンプラリーのように 日々努力した。 そうやって育ったのに、 大人になると突然ご褒美はなくなる。 なくなるというか、 自分で自分に与えるように
負の感情が豊かさを生む 3.11が私に気づかせたこと。 当時、学生だった私は、 親元を離れて寮暮らし。 何も考えず、ただひたすらに 毎日友達とおしゃべりし、 部活に行き、 たまに勉強もして、 普通の学生生活を送っていた。 そしてある日突然地震が来て、 都民の私は直接被災したわけじゃなくとも 大きなショックを覚えた。 怖くて、孤独で、不安で。 自分のことで精一杯なのに、
"画面上"のお友だち SNSの使い方は人それぞれ。 TwitterもFacebookもInstagramも 一通りアカウントは持っているけど いわゆる"鍵垢"で、 現実での知り合いとしか繋がっていない。 むしろ繋がる必要を感じてなかった。 でも、純粋に好きなことを発信出来たはずのSNSは、 いつしか窮屈な世界になって 気づけば"見る専"に。 「そんな私でもなにか発したい」 そう思ってある時突然
価値観という甘え。 よく、恋人や夫婦が別れる理由に 「価値観の不一致」 がある。 そっか、それならしょうがないな。 と何となく受け入れがち。 でもそもそも価値観って何? こんな文章が、 半年前の日付で下書きに保存してあった。 これには続きがあって、 この後書こうとしていたことは 覚えているような。覚えていないような。 果たして半年前の答えと 今の答えが一
ないものねだり。あるものねだり。 梅雨が長引いて もう雨はこりごりだと言う。 明けて灼熱の太陽を浴びれば 秋が恋しいと言う。 そして台風がくれば 異常気象だと言う。 あれがない、これがない 必死に探して器を満たす。 でもそんなに必死になって無理矢理かき集めたものたちは どこか全部ちぐはぐで こんなはずじゃなかった と嘆く。 ないものにねだり、あるものもねだる。 用意した器に押し込まず 与えられた時に 器を用意して、受け止める。 そうすれば
紫陽花の季節。 この季節は、出かけるのが億劫で でも今しか見られない紫陽花のために こぞって行列に並ぶ。 「晴れるといいね」 「お天気でよかったね」 そんな言葉が行き交う でも不思議かな 紫陽花が一番輝いてみえるのは 雨が滴る、薄暗いそんなとき。
友情は生きものだ。 ある時ふと、お互いの不透明な好意と善意によって生まれた友情。 その時は決まって、その友情は永遠に生きつづけるものだと思い込む。 生きものだから、 お世話して 風邪をひいたら看病をして 時に甘やかして 時に厳しく 育ててあげなくちゃいけない。 でもそんなことに気づけずに、 一度生まれた友情を不死身だと思う人は、 飼育係を他人に丸投げする。 丸投げされてしまった飼育員は、 ある時ふと、相手がサボっていることに気づく。 そして気持ちが
他人の幸せに、幸せを感じないとダメ? 親戚、友人、同僚、知人。 日々いろんな人と関わる。 と、同時に 自分の人生にもいろんなことが起きる。 そんな時に自分の気持ちを押し殺してまで 他人の幸せを自分の幸せに感じないとダメ? 自分が喉から手が出るほど欲しいと思っていたものを、 他人がいとも簡単に手に入れた時、 悔しい、という気持ちが芽生ることは間違い? おめでたいがあれば、お祝いする。 ただそれは他人の「幸せが」「めでたい」わけで、 それを自分の「幸せ」と