私たちの男

昨晩、『あちらにいる鬼』(井上荒野)を読み終わった。

駆け落ちして世間を騒がせた作家の女(三谷晴美、現・瀬戸内寂聴)が、同業の男(井上光晴)と知り合い、恋に落ちた。男には妻がいて、五歳の女の子(井上荒野)がいた。その五歳だった子が、大人になって書いたのが、この小説。

ツイッターのお友達に、「あなたは愛人タイプだ!」って何度か言われた。
この小説は、愛人側から始まる。
たしかに愛人側に共感した。例えば、

それでわたしにはわかってしまった。このひとには必要なことだったのだと。家。家族。それらが象徴する幸福。あるいは、それらが保証してくれるかもしれない幸福。白木にはそれが必要なのだ――本人がどんなに認めまいとしても。そしてわたしは、それが必要ない人間だった。そんなものはいらない。どうでもいい。

とか。

一方で、妻の不自由さが苦しかった。自分で選んだとはいえ、逃げられなくなっているのは見て取れた。でも、この愛人も、結婚し子どもを育てていた人だ。よくここまで自由に。人の業とは思えないぞ。

ただ、読んでいくうちに愛人側に興味がなくなり読み飛ばすようになってしまった。性とか女なんてのを十分に味わおうとしているのを感じれば感じるほど、飽きた。一方で、妻側が何をどうするのかを考えては、計り知れないなあと惹かれた。

愛人が「わたしの男。」と表現した一文があった。
それから143ページ後に妻が「私たちの男」と表現している。
そこが印象的だった。

人に言われるくらいだし、わたしは愛人タイプなのかもしれない。分からない。愛人になる想像ができない。
ただ、自分の恋人がもう一人彼女を作って妊娠させてしまったとか、わたしの横に座ってスマホアプリで婚活に励んでいた、という経験ならある。わたしはそれを受け入れた。そのたび泣いて泣いてどうしていいか分からなかったけれど、受容していた。
この小説では、次々に新しい女と関係をもっていく夫を全身で感じて生きる妻が描かれている。この妻に思いを寄せた。自分にはここまでできるだろうかと思った。耐えるとかいうんじゃない。そこではないんだ、と、勝手に共感して理解した。

そんなわけで、妻の笙子が、面白い!

小説の終わりは、作者から、笙子への愛があふれている。たぶん。つまり、お母さんへの愛情がどわーーーっと伝わってくる。
そのページまで読んできたスキャンダラスなストーリーがどうでもよくなるくらいの切ない愛情だった。読んで良かった。



この記事が参加している募集

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?