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さびしい

小学6年生の時に、森高千里の歌を聞くようになって彼女は「さびしい」という言葉を使う際には「淋しい」という漢字を使うことに気づいた。サンズイに林というのは、なんとなくきれいでいいなと、思ってすぐに覚えた。
中学2年生になって、国語科の授業が矢内先生という竹刀を振り回す人になった。国語の授業が一気に濃いものになった。
先生は、さびしいという字の漢字には

寂しい
淋しい

の2種類があるんだと、教えてくれた。
わたしは森高千里の使う方を使いたいと思ったけれど、辞書で調べたら、自分が感じるさびしさはきっと「寂しい」の方だと思った。
ウ冠は家を表していて、家に人がいないことをさびしいとするニュアンスだったと記憶している。

わたしは家に一人でいたい人間だったし、今も一人だけれど、けれど、というかだからか、淋しいではなくて寂しいと感じる時が多い。会話はなくてもいいから誰かいてくれれたらなと、ふと思う。

でも、さっきの大雨が来る直前の途方もない気持ち。こんな自分では誰にも会えない、話せない。迷惑をかけられない。この胸の内を抱えて泣けたらいいのにと思った。泣きながら麻雀をする様子を浮かべてみたりした。頭の中では泣けるのに、実際は泣かない。大雨に合わせて泣けたら、それくらいの激情があればいいのに。いつの間にか、わたしのさびしさは、むなしさになっていたのかも。
「むなしい」も、

空しい
虚しい
と二つある。
人は、これをどう使い分けているのだろう。

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