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なぜ掃除をするのか?【箱庭の詩】

『掃除とは、人や物など全てに感謝をすることである』


なぜ掃除をしなければならないのだろう?

何もしていないのに何処からともなく埃が現れ、覚えのない汚れが付着していたりするのが忌々しくて面倒臭い。

しかし定期的に掃除しないと、どんどん汚れていくし、私達の健康を損なう可能性だってある。

掃除なんてものは時間の無駄で、お金に余裕があれば誰かにやってもらうのも手だと考える人もいるかもしれない。

『時は金なり』と言うし、掃除なんてのは人生にとって無駄な作業だから、もっと別の物事で合理的に華々しく創造的に時間を使いたい人もいるかもしれない。

いや、『掃除』と言うから無意識的に義務感が生まれて自由を束縛されるように感じるから拒否反応が出ているだけかもしれない。

もしかすると、子供の頃に「片付けなさい!」と大人に怒られたことが屈辱的で、現在まで尾を引いているからかもしれない。

そもそも『掃除』とは何なのだろうか?

単純に汚い物(部分)を綺麗にするという意味だけだろうか?

それだけなら掃除して綺麗にするよりも、可能であれば買い換えた方が時間の無駄にならず迅速な時もあるだろう。

ネットや本を乱読してみても、掃除する理由は気持ちが良いからとか、運気が上がるとか、衛生面について書かれている文章が多いように思う。(もちろん違うものもある)

「部屋が綺麗だと、心も綺麗になるよ☆」……というのは概(おおむ)ね正しい。

実際に仕事の効率が上がったり、お金の実入りが良くなったり、心の汚れが落ちたり、気の流れも良くなるので、掃除を侮ってはいけないという意見には賛成だ。

しかしそれは『自分本位』な考え方だともいえる。

自分のため、お金のため、結果を出すため、見栄のため、優越感のため……。

端的に言えば、『自分にとって得(徳)だから、やった方が良い』ということだ。

そこに焦点を当てすぎて本質が有耶無耶(うやむや)になっている気がする。

もちろん掃除は、自分だけでなく周囲の人も幸せになり、誰もが得をし、損もなく、誰しも幸せに肖(あやか)りたいものだから、どんな下心があろうとやらないよりはマシだ。

そこを否定するつもりも糾弾する必要もないし、特に問題はない。

寧(むし)ろ自分本位なところから物事の本質を考え始めるのは当然だ。

しかしイマイチ『なぜ掃除をするのか?』という疑問に対しては氷解していないように思う。

だからあえて、もう一歩踏み出し、次元を上げた考え方を思索した。

それが冒頭にあるとおり『感謝』するために『掃除』をするという結論だった。


日頃お世話になっている人や物……森羅万象全てに恩を返す(綺麗にする)『行動』の事を『掃除』といい、私達の身近に根付いた表現なのではないだろうか?

もちろん自分の身を綺麗にする(休ませる)のも自分に『感謝』しているといえるだろう。

使役し、酷使し、頑張っている物・事・人には、有機物だろうと無機物だろうと須(すべか)らくメンテナンスや休息が必要だ。

私達はその恩を『感謝』という形で返す方法を知っている。

それが『掃除』だ。

本質的な意味が分からずとも、教えられずとも習慣として私生活に根付いていることは、一見無意味で無駄なものに見えても、目線を変えれば決して侮れない事ばかりだ。

もちろん『ありがとう』と言葉で感謝するのも良いのだが、心が込もらず何もしない場合は、良いように使うだけ使って、要らなくなったら捨てるという暴挙に出かねない。

恩返しをしたいと思うのは人情ではないだろうか? 相手が何であれ。

さらによく考えてみると、1日の終わり、もしくは始まり、またはいつ何時でも労い、感謝するのは当たり前だろう。

『感謝』していることには変わりない。

例えば、神社やお寺では綺麗な状態が維持されていても、毎日日課として掃除をするらしい。

埃一つない荘厳な空間でも毎日掃除は欠かさないのは習慣であり修練だろう。

その他にも外には木がたくさん植えられ、それに比例して落ち葉がたくさん落ちているのに、一つ残らず掃除している光景は見たことないだろうか?

合理的に考えれば、木を一本も植えなければ、落ち葉を掃除する必要がない……にも関わらず、なぜ毎日掃除しているのだろうか? 木を植えなければいいのに……と考えたことがある。

『掃除』とは『感謝』を込めて『行動』することだから、綺麗な場所も欠かさず掃除するというのは理解できる。

しかし、ボランティアを雇うほど大量な落ち葉の掃除には何の意味があるのだろうか?

その答えを探すために落ち葉を掃除する理由を調べたり、考えたりした結果、木には空気を浄化する力があり、そして落ち葉自体が不浄を溜め、停滞と澱みを生むから掃除をするのだと思い至った。

要約すると、木(自然)は不浄を吸い取りその場の空気や穢れを浄化する役割があり、その不浄のエネルギーが落ち葉となる……という仕組みだ。

木々がないとあの清らかな空気は生まれないし、その頑張りが落ち葉(不浄)に凝縮されている。

だから、人が『敬意』と『感謝』を込めて掃き掃除するのは自明の理だ。

家の観葉植物が枯れやすい場合も、浄化作用よりも不浄の力の方が優っているから、観葉植物が枯れない家というのは気が清浄(正常)と言われている。

つまり落ち葉には不浄のエネルギーを溜め込んでいるので、定期的に落ち葉を掃除しないとせっかくの浄化した綺麗な空気がその場所に満ちないからだと思われる。

自然ならば落ち葉も腐葉土になって循環するので問題はないが、人の往来であれば話が変わるようだ。

閑話休題、つまり掃除とは修行僧がしているから特別で高尚な修行という訳ではないし、私達がするから金にもならない無駄な仕事という訳でもない。

転じて、『掃除』は私達の生活の中に取り入れやすく、修行の一環にすることができる……ともいえるのではないだろうか?

修行ととらえず、気楽に楽しむのが一番だが。

神社仏閣と家の違いは色々あるが、多くの人がそこを訪れるのは信心はもちろんのこと、恩恵に肖りたい人もいるだろうと思う。

特に神社に行く理由は、心を浄化したい、パワースポットでエネルギーを貰いたい、願いを叶えて欲しいなどが多いだろう。

そんなことをしなくても『掃除』は家をパワースポットに、神社と同じような場所にしてくれる。

パワースポットというと大袈裟だが、少なくとも家というものは最も身近な安らげる場所で、自分にとって最も波長が合っている場所なのに、神社に行かないとパワーが得られないのは不自然だ。

そして外部でどれだけパワーを貰っても、わが家が汚くてはせっかくもらったパワーが消滅してしまうのは言うまでもない。

元々住んでいる家がパワースポットでなくても『掃除』を通してパワースポットに変えることも可能だ。

家だけでなく、そうした自分にとって身近な物を『掃除』して『大切』にして、『感謝』していると、それだけでも運や得(徳)が宿るという訳だ。

これが『掃除を通して運気が上昇する原理』だ。

もっと言うと、『感謝を通してお互いに助け合う』から流れが良い方向へと導かれる。

別に場所が清らかなのではなく、そこに住む人々が『感謝』を『行動』で体現しているに他ならない。

『掃除』はどこでも、そして誰でもできることだ。

最悪、感謝がなくても身の回りを綺麗にしておくだけでも得がある。

ただ、『掃除』の本質には『感謝』が存在していることを忘れてはいけない。


Q.『なぜ掃除をするのか?』

A.『掃除』という『行動』を通して日頃の『感謝』を伝えるため。

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