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原子力シリーズ②~原子力導入の水面下、日本とアメリカの動き~

こんにちは、QoiQoiの大橋悠太です。
今回もシリーズ原子力です。前回は世論の変化や受け止め方に注目して、原子力の導入までを追いましたが、今回は日本とアメリカ両政府の動きに注目して歴史を紐解いてみたいと思います。
ではいきます!

目次
1、アメリカの事情
2、日本の思惑
3、国策としての原子力
4、まとめ

前回記事


1、アメリカの事情
前回アメリカに関しては国内の事情を省いて、アイゼンハワーの「Atoms For Peace」から話を始めました。
「平和のための原子力とは、つまるところ核技術のビジネス転換だった」という話でしたが、彼の演説は実は追いつめられた末の苦肉の策でもあったのです。
その背景を語るためには、1940年代のアメリカを振り返る必要があります。

第二次世界大戦がはじまった1939年。
アメリカは戦争特需に沸きに沸いていました。戦場がヨーロッパだったこともあり、国内に被害がないまま大量の武器や機械の製造と輸出ができたからでした。
そんな中、科学者のシラードとアインシュタインからアメリカ大統領宛に書簡が届きます。曰く「ドイツが核分裂の技術を使った新型爆弾製造に着手したらしい。ドイツがヨーロッパ戦線で使用する前に、アメリカで開発するべきである」という内容でした。
この書簡をきっかけにアメリカは「マンハッタン計画」と呼ばれる、極秘の原子力開発と原爆製造に着手します。総事業費は20億ドル、日本円に換算して100兆円というとてつもない大事業でした。
しかし当時のアメリカにはそれが可能だったのです。むしろ1945年までに原爆製造ができたのは、アメリカだけだったと言ってもいいかもしれません。

そうなのです、事実アメリカと同じく原子力開発に着手していたドイツや日本では、多額の開発・研究費から思うように開発は進まず、アメリカと比べ2~3年も遅れていたのです。
それが分かった1945年3月、再びアインシュタインがアメリカ大統領宛に「すべての原爆製造の即時中止」を求めた書簡を送りましたが、その直後に当時の大統領が死去。後任のトルーマン大統領には書簡が届かず、原爆は日本のヒロシマとナガサキに投下されることになりました。
アメリカの原爆投下の名分としては「戦争の早期終結と被害の最小限化のため、最善の選択だった」という見解ですが、一説によると台頭しつつあったソ連へのけん制として、原爆の力を見せつけたという話もあります。
ただ、事実として1945年に戦争は終結し、日本は連合国側の占領下に置かれることとなりました。

さて、戦争が終結したことにより一転して困ったことになったのは、原爆製造と研究開発の維持でした。戦争特需が終わったことで、国民の負担が一気に増え、やり玉に挙がったのが兵器としての原爆関連の莫大な費用でした。また日本の被害に対する人道的観点からも批判が集中しました。
しかしアメリカの核技術はソ連のスパイによって盗まれており、戦後数年でソ連が原爆開発に成功、アメリカとしてはソ連に対抗するため金が掛かっても、更に威力の高い核兵器の開発を断念する訳には行きませんでした。
アメリカ政府は国民の不満と国防との板挟みで頭を抱えていたのです。そしてそんな中大統領になってしまったのが、あのアイゼンハワーです。
就任直後から世論の高まる不満に対して、苦肉の策として打ち出されたのが「原子力の平和利用」としての原子力発電の輸出だったのでした。


2、日本の思惑
さて、そんなアメリカの事情を知ってか知らずか、すぐに飛びついた日本は急ピッチで原子力導入の道筋を作っていきました。
中曾根康弘による原子力開発費2億3500万円の予算成立から始まり、正力松太郎による一大PR、原子力推進委員会の発足などたった数年で足場を固めていきました。
この動きをアメリカは強力に後押ししました。原発がビジネスになること、利用価値の高さを日本の成功によって国内外にも示そうとしていたのです。
1955年には「日米原子力協定」を結び、アメリカの濃縮ウランを無償供与することを約束。日本での原子力関連のイベントにもアメリカ広報局として出資や共同主催で開催するなど力を入れました。

敗戦した日本にとって、エネルギー問題を解決することは急務であり、かつ核を持たないと憲法で決まったものの、原子力の力を保持することは国防に関しても大きな意味を持っていたのです。
後年に中曾根康弘は池上彰によるインタビューに対し、「あなたはいずれ日本も核武装をすることを念頭に置いて、原子力予算案を通したのではないですか?」との質問に「当時はそこまで具体的な事は考えていなかった。純粋に日本のエネルギー問題を解決したかっただけだよ」と答えていますが、池上氏としては今も、日本も核を持つ可能性を残したかったのではないかと思っているそうです。
結果的に中曾根が舵を切ったことで、現在にわたる日本の原子力容認の立場は決まったと言えます。1954年が日本の原子力のキーポイントであるのは間違いありません。


3、国策としての原子力
それから日本は国を挙げて原子力を推進していく事になります。
原発製造には多くの研究者、科学者、技術者などが必要であり、建設作業員や管理の為の人員など、大量の「人・物・金」が動くプロジェクトです。
その為、原発製造が決まった地域では「原発景気」に潤い、過疎化が進む地方においても目覚ましい経済発展を遂げ、のちにハコモノと呼ばれる使い手の居ない公共施設が大量に作られました。
原発に対する反対運動には74年に「電源三法」という法律を作り、国民の電気料金や税金から原発を誘致する地域への交付金を賄うなど、推進のためのアメも用意されていました。

国がここまでして原発を推進したのはなぜなのか。
それは原発こそが日本の経済発展の根幹だからです。
これまであったアベノミクスなどの経済対策も、日本の成長戦略の根幹にあるのは原発なのです。
日本の高い技術力による高品質で安全な原発の海外輸出、それこそが日本の成長であるというのがこれまでの日本政府の示してきた道筋です。
海外の今後発展する国々に対して、原発を輸出する交渉は常にしていますし、その交渉を進める為に沢山の海外援助や協力もしています(もちろんすべてがそうだとは言いませんが、見返りを求めない援助・協力は外交としてはあり得ません)。
この【原発】という大きな経済圏には既に、多くの政治家や自治体、会社、投資家などがおり原発推進を方向転換すれば、大損する人々が沢山いるのです。
だからこそ日本は原発を止められないし、3.11後も原発容認という方針が大きく変化することはありませんでした。
まぎれもなく原発は日本の発展を懸けた国策なのです。


4、まとめ
いかがでしょうか?
アメリカの思惑から、日本の成長戦略まで話が多岐に渡りましたが、日本にとって原発がどういうモノか、その複雑さと巨大さが少し見えてきたと思います。

次回はよりフォーカスを原発に当てて、仕組みやメリットデメリット、抱える問題などについても書いてみたいと思います。
今日はこの辺りで、ではまた。

QoiQoi 大橋悠太



QoiQoiプロフィール
2018年2月9日に大橋悠太と吉次匠生によって結成されたアートユニット。 当初はano(アノ)として活動していたが、2020年10月1日より団体名を改めQoiQoi(コイコイ)として新たな活動を始めている。

また、「想像力を創造する」を信念に演劇、映像、インスタレーションなどさざまな分野を飛び越え作品制作を行う。団体名のQoiQoiもquality of imaginationが由来である。 また、社会問題から個人の体験まで幅広い事象を可視化し、常に観客に「当事者性」を提示する作品作りが特徴である。

このnoteでは作品制作のことを中心に、被災地のことや原発のこと、その他考えたことなど、読んでくれている方へなるべく為になるような記事や僕らをより知っていただける記事を書いていくことを目指しています。
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