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『アバンとアディ(富都青年)』監督は語る

昨年2023年11月の金馬獎で7部門にノミネートされたマレーシア映画「富都青年/Abang Adik」。呉慷仁(ウー・カンレン)が最優秀主演男優賞を受賞したことは大きな話題となり、劇場公開では1億台湾元を突破した初のマレーシア映画となった。そう、台湾映画ではなくマレーシア映画なのだ。だが、主演が呉慷仁であるために台湾映画と錯覚してしまう台湾人もいたとかいないとか。

本作は日本では同11月のCinema at Sea 沖縄環太平洋国際フィルムフェスティバルのコンペティション部門で「アバンとアディ」のタイトルで上映され、観客賞と審査員特別賞、主演俳優賞の三賞を受賞した。個人に対する賞は俳優賞しかなく、それは男優賞でも女優賞でもなく俳優賞だったので、もしかしたら呉慷仁の演技の凄さに圧倒され急遽設定した賞だったのかもしれない。

日本でもこの映画に興味を持つ映画ファンがいることと思う。沖縄上映時に2回行われたアフタートーク、そして筆者が沖縄の映画祭事務局の協力の下に行った王禮霖(ジン・オング)監督インタビューを基にこの映画について解説、紹介したい。


王禮霖(ジン・オング)監督

欧文原題「Abang Adik」と中文原題「富都青年」

 この物語は兄アバンと弟アディの物語である。沖縄での上映時、日本語タイトルが「アバンとアディ」になったわけだが、これは欧文原題に起因している。いま欧文タイトルと書いたのは、これが英語ではないからだ。これはマレー語であり、マレーシア人の名前を並べたわけではない。アバン(Abang)はマレー語で「兄」を指し、アディ(Adik)は「弟」を指す。これを合わせると「兄弟」という意味になるという。だが、中国語のタイトルは「富都青年」だ。このことについて、ジン・オング監督は上映後のアフタートークで次のように語っている。

「中国語のタイトルが先に決まった。物語の舞台は(クアラルンプールの)プドゥ地区で、中国語では“富都”という文字が当てられている。このプドゥに生きる身分のない若者の話だ。“富都”の“富”にはやはり金持ちのイメージがあるが、そこに生きる身分のない人々はそれとは真逆な人々である。その対比を中国語タイトルに籠めた。このタイトルが決まった後に欧文タイトルを考えたわけで、直訳するとPudo Teenager みたいになるが直訳はしたくなかった。英語に直訳するのではなく、マレーシア映画だと伝えるためにも「Abang Adik」というマレー語を採用した。マレー語の固有名詞として欧文タイトルに当てた」

 そう、アバンとアディの兄弟は貧しく、兄アバンは市場で低賃金で働き、弟アディは危ない仕事に関わっていそうだ。ふたりにはほかに身寄りがなく、本来持つべき身分証がなく公的サービス等を受けることができない。それはなぜなのだろうか。

マレーシア社会の実像

 マレーシア社会は多民族社会である。大きく3つのエスニシティに分かれていて、2023年のマレーシア統計局のデータではマレー系約70%(先住民12%を含む)、中華系約23%、インド系約7%である。足して100になるが、細かく見るとそれ以外の人々がいる。マレーシアには途上国でありながら多くの外国人労働者に頼る現実があるのだという。監督のジン・オングは、本作で監督デビューするまではプロデューサーとして貧困層やジェンダーの問題などボーダー上にある人々や社会的弱者をテーマにした映画を送り出してきた。その延長線上にこの映画はあるのだという。

「マレー社会にはマレーシアで生まれたにも関わらず、いわゆるID・身分証のない状態で生きている多くの人々がいる。コロナ禍のこの3年は彼らの存在がすごく浮き彫りになったと感じる。なぜかと言うと、政府からの助成金は身分証のある人に対してであり、身分証のない人はもらえない。また格差が生まれている。映画を介して解決策を提示できるわけではないが、映画を介してマレーシア社会で長年にわたって身分証の問題が解決されずいることを知ってほしい。法改正がなかなか進まず、彼らには身分証がなかなか発行されない。その問題を映画を通して受け入れ、関心を寄せていいただければという思いがある」

 この身分証のない人々が生まれる背景には、外国人労働者が絡んでいるという。監督が出合った例を聞こう。

「身分証明書を発行できない子供たちの事情はどういうことかというと、父親がマレーシア人で母親が外国人――フィリピン、インドネシア、そしてタイといった国から来た人たち。この女性たちの多くは出稼ぎ労働者で違法に働いていたりする。だから、両者の間にできた子供は合法的な手続きをとっていない。やがて、父親はどこかに消えてしまうかもしれないし、母親も自分の国に帰ってしまうかもしれない。そうなると、残された子供たちは両親を証明することができなくなり身分証明書は発行できない――というのがマレー社会でよく聞く哀しい話」

 それでもマレー人の父親が子供を証明すれば身分証明書は発行可能だ。劇中でソーシャルワーカーの女性がアディと生き別れの父親を繋ぎ、アディに身分証明書を取得させようとするのはそういう事情からだ。

 身分証がないため警察の追跡を躱わすなかで転落死する兄弟や国外退去になる少女のエピソードが出てくるがこれらも実際にあったことを基にしているという。

「NGOから聞いた話だが、インドをバックグラウンドにする3人のきょうだいがいて両親は所在不明。きょうだいのうち姉は働ける年齢に達していたので働いていたが、身分証明証を持っていない。その弱みに付け込んで雇い主がコロナ禍で経営が苦しいからと賃金を払わなかった。そして彼女を脅した『不満だったら警察に通報したらいい』と。彼女はもちろん警察に通報できない、身分証明書がないから。彼女はもう生きていけないと弟妹と3人で心中しようとした。彼らは実際に10年にわたって身分証明書を発行してほしいと交渉していたが、なかなか発行してもらえなかった。そういう例が実際にある」

キャスティングについて

来日できなかった呉慷仁に代わって登壇したジン・オング監督と審査員・仙頭武則氏

 兄アバンを演じ2023年の金馬奨で最優秀主演男優賞を受賞したのは、台湾の実力派・呉慷仁(ウー・カンレン)である。呉慷仁は、テレビドラマを対象にした金鍾奬や台湾映画を対象にした台北電影奬で最優秀主演男優賞を受賞した経歴はあるが、金馬奬に関してはノミネートすらされたことがなかった。とは言え、彼のキャリア、力量は当然のことながら監督は知っていたわけで、それでオファーしたのかというとそれがそうでもないと言う。

「この役は公募していて、国籍不問、最終的にマレーシア人に見えればよかった。2020年に台北金馬映画祭に参加した時に共通の知り合いから呉慷仁さんを紹介してもらったこともあるが、彼がこの映画に興味を持ってくれて自らこの役をやりたいと、彼が自分でこの役を勝ち取って一緒に仕事をさせてもらった。彼と一緒にできると決まって、僕はとても緊張した。なぜなら、彼はキャリアのある役者で、しかし、これは僕の新人監督としての処女作だから。自分に監督としてキャリアがないなかでどうコミュニケーションをとればいいのかわからなかった。実際にふたを開けてみるとすごくスムーズで、彼はキャリアがあるにも関わらず、どちらかと言うと積極的に意見を言うよりも監督の指示にすごく耳を傾ける役者で、そのことに驚いた」

 アバンは聾唖の設定であったため、呉慷仁はマレー語の手話を習得する必要もあった。意外に思われる人もいるかもしれないが、手話は万国共通ではないので、彼にとっては母語ではない言語の手話だったわけで、かなりの努力を要しただろう。この設定について監督はこう語る。

「脚本を書いているうちに思った――彼らの声は中央(政府)に届かない。辺境を生きる彼らの声が届いていないのであれば、実際に声がないほうがエッジが効いてより彼らの声なき声がこの映像のなかでパワーを持って伝わるのではないかと。呉慷仁の手話はNGが一回もなかった。一回だけ彼が『僕、間違ったかもしれない』と言ったけれど」

 アバンが公募だったのに対し、弟アディは最初から陳澤耀(ジャック・タン)に決まっていたそうだ。ジャックは受賞こそしなかったものの、やはりこの役で金馬奬の助演男優賞にノミネートされている。

「ジャックは17歳から僕が面倒を見てきた役者。すごくポテンシャルを持っていると思うし、いろいろな役にチャレンジするなかで学んでいってほしいということは彼に常々言ってきている」とのこと。実際、過去のジン・オング・プロデュース作にジャックはかなりの確率で出演している。

 公募だったアバン役は最終的にマレーシア人に見えれば国籍不問だったと書いたが、素の呉慷仁はマレーシアを歩いていると観光客・中華系に見えてしまう色の白さだったという。そこで役作りの最初の一歩としては真っ黒に日焼けするということがあったそうだ。日焼けサロンのような生半可なことではなくて、真っ黒に焼けた外国の労働者、常に外で日差しを浴びる、そういった労働者の色に近づけていったとのこと。そして、外国人労働者の働くエリアを体感していたという。

「撮影のかなり前段階で呉慷仁はマレーシアに来て、その初日からジャックが付いていた。ふたりは一緒に外国人労働者が多くいるエリアに入って、彼らがどういう暮らしをしているか入念に見て感じて一緒に時間を過ごしていくなかで彼らになろうとしていた。僕は横でずっと見ていて、呉慷仁は200%の情熱で、自らの命を燃やして俳優生命にかけている、そういった素晴らしい演技者だなと思った。自分に対する要求がものすごく高く、本当のものを提示してくれる。彼だからこそ、この作品がより高尚なものになったと思う。撮影に入ってからディスカッションがあまりなかったのは、撮影に入る前に十分に討議をして、そのなかで互いに阿吽の呼吸が出来上がった状態だったから」

 兄弟役の絆も、準備段階からともに過ごしたことで強固になったのだろう。互いの額でゆで卵を割るシーンやダンスのシーンから醸し出される兄弟の絆。兄弟でバスに乗っているシーンでアディはアバンにもたれかかって眠るが、これはジャックによるアドリブだという。ネタバレになるので詳しくは書かないが、終盤でも兄弟の絆を感じさせる演出がジャックの発案であった。

「ジャックは役に没入しすぎて、カットがかかっても10分以上泣き続けた時があった。仕方がなくてカメラマンが慰めたぐらいで」と監督は明かしてくれた。アバンとアディ、強固な兄弟の情はこのふたりだったからこそ表現できたのではないだろうか。

 同じアパートに住みふたりを見守るマニーを演じる鄧金煌(タン・キムワン)についてもうかがったので記しておこう。

「彼は古い友人で、舞台演劇のキャリアはあるけれど、映画は初めてだったよう。じつはほかの俳優をキャスティングするつもりがスケジュールが合わなくて流れてしまい、そこで彼に思い当たった。彼とはしばらく会ってなくて、2016年に再会してとても驚いた。僕が知らない間に彼は脳卒中をやっていて、顔面マヒがあって表情や面持ちが変わっていたから。僕は、この顔にはものすごく物語性があると感じ、是非にと」

 じつに自然な演技の鄧金煌だが、映画初出演ということで彼に寄せた脚本にしていたそうだ。彼も受賞こそならなかったが、金馬獎の新人俳優部門にノミネートされている。

プロデューサー業と監督業

 さて、ここでジン・オングのプロデューサーとしての業績について書いておこう。Wikipediaによるとプロデュース作(監製、製片)は6本あるが、うち日本で上映機会を得たのは『ミス・アンディ』(20/原題・迷失安狄)のみである。台湾とマレーシアの合作で、監督はマレーシアの陳立謙(テディ・チン)、主演は台湾の李李仁(リー・リーレン)。妻を亡くしたことから自分本来の姿に正直になるべく女性として生きることにした主人公アンディと、仕事も家も失ったベトナムからの出稼ぎ女性を中心に展開する。これは台湾では公開されているが、マレーシアでは上映できないとのこと。日本未公開作では、マレーシアの都市部に住む貧困層に焦点を当てた「分貝人生」(17・マレーシア/原題/陳勝吉監督)の評価が高い。今回の『アバンとアディ』もこれらの延長線上にある映画と言える。ただ、ジン・オングの役割としては監督と脚本に集中し、プロデューサー的なことは控えている。

「もちろん僕の(プロデューサーとしての)過去の経験がこの作品を作るうえでプラスになるのは言うまでもない。リスク管理や予算のことは手慣れている。いろいろな監督とやってきて、どんなトラブルが起きるか予想できるのでいろいろハンドリングできた。けれど、この作品で僕は監督で、予算を管理する人やプロデューサーは別にいる。彼らに言われたんだ『お金の計算とかは慣れていて巧いかもしれないけれど、もう監督なのだから僕たちに任せてください』と」

 もともと監督志望だったそうだが、長年プロデューサーとして映画制作に携わってきた。今回、監督に挑もうと思ったのはコロナ禍と関係していると言う。世界中で多くの人が新型コロナcovid-19で命を落としたという状況下、

「残りの人生は短いかもしれない。もしそうならば、自分のやりたいことを今やらなくていつやるのだ? そう思ったことが大きなきっかけだった」とジン・オングは語る。

 さて、映画監督としても活動を開始したジン・オングだが、今後について次のように考えている。

「プロデューサー業をやりつつ映画は3作監督したいという思いがある。はやくて2年後くらいに次の作品の形ができていたらというスケジュール感で考えている」とのこと。

 じつは、この沖縄の映画祭会期中に中華圏の監督たちを集めてのトークイベントがあったのだが、その席でLGBTQをテーマにしたものを考えていると発言している。とは言え、これ、そう簡単なものではなさそう。と言うのは……

「マレーシアはムスリム国家なので、LGBTQ自体にすごくハードルが高い。でも、タブーとしては政治や歴史、そして宗教。この3つに関してはセンシティブなので気を付けたいところ」

 前出のプロデュース作で『ミス・アンディ』がマレーシアで上映できないのは、こうしたことが絡んでいるからだろう。知らないと想像ができない。

「想像できないというのは、僕にとっていい話。だからこそマレーシアをテーマに撮ったんだ。マレーシアはこういう場所で、こういう物語があって、こういういろいろな問題を抱えているということを、皆さんが無理なく知ることができるひとつの足掛かりになるようにと。僕はこういった作品を持って皆さんと交流できていると実感している」

 台湾では昨年2023年12月に公開され、1億台湾元を超え、マレーシア映画最大のヒットとなった『アバンとアディ』。筆者の調べでは、2023年に1億元を超えた台湾映画は『僕と幽霊が家族になった件』の1本しかなく、そういう点でも台湾映画ファンにとって気になる映画になっているのではないかと思う。気になる日本公開についてだが、劇場公開について2024年6月現時点では情報がないが、Netflixで配信が始まったので、視聴環境にある方は是非ご覧いただきたい。


Cinema at Sea アフタートーク・モデレーター
11/28(月) ワンダー・オン(翁煌德)氏
11/29(火) 菅谷聡 氏

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