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一恋愛が終わって。

このことを言わずしてSNSは使えまいと、記事を書き終えるまでの1週間強は…公につぶやくことなどをしないでいた。

その人のNoteの「スキ」が増えていくのを横目に、淡々と時間をお金に変換していた。
それがひと段落した今、私は自由に書き連ねることができる。

さて、その詳細はその人のNote(Link)を見ていただくことにして。
なんでって?そりゃ、私は事実を事実のままに述べられないからさ……



実感

さて、私は恋人と別れたわけだが、日々の生活に特段大きな変化はない。
よくある 恋人らが別れた後に感じる気まずさ といった類の思いは抱いていない。

ああ、他のnoteにはもっとどす黒い体験談が並べられているのに。
すがりつかれるような、そんな切れ味の悪い別れを私は想像して画策していたのに、結果は極端にあっさりとしたものだから。
私たちが不幸に苛まれることなく"恋愛"が終わったことに対して…ある種落胆しているのかもしれない。

最悪の事態を予測しておくことによって、結果的にその事態を避けられた。そんなことなのかもしれない。



理想

恋人やそれに類する関係を持つ人に求めるものには、精神的な高揚が多いのだろうけれど、私にとっては 精神の拠りどころ が一番になる。
精神的な拠りどころ、弱いところを見せられる関係性っていうのが一番望ましいなあって思うんです。
今現在で心身的に疲弊していることがその思想の原因なんだろうけれどね。

さて、私はそんな関係性を作ることは出来ただろうか。半分Yesで半分Noだと思う。
相手を慰めるようなことは出来ただろうけれど、自分の弱さをさらけ出すことは出来なかったなと思うんです。
その理由は、先輩として振舞わないといけないとか、私よりも相手の方が抱えているものが大きかったとか色々あるのだろうけど。



成長

この恋愛を通してなのか、それともバックグラウンドにあった部活のせいなのか分からないけれど、この1年は私を大きく成長させた。特に人間性という面で。

元々私は、人間自体に興味がなかった。人間が持っている考え方自体とか、人間同士が作り出すコミュニティ自体が好きだっただけで。
だから、恋愛は私のモノではないと思っていたし、友情も私のモノではないと思っていた。
「ビジネス的な人との関わり方がちょうどいい」なんて言ったもので。

むしろ今は、友情とか愛情とか、そういうものがとても素晴らしいものだと思うようになった。優しい嘘の尊さを語り合って涙したこともあった。
それの影響なのか、子供が愛らしく見えるようになった。

私は成長したのだ。これで、家庭を持ったとしても人並みに愛情を注げるようになったかもしれない。


半端

「挫折とは真逆の中途半端」
そんな人生をずっと過ごしてきたような気がする。

「挫折」っていうのは、本気で何かに取り組まないと得られない感情だと思う。そのような努力をしてこなかった中途半端な私は「挫折」の味を知らないのだ。

例えば中学受験。
私は塾に行っていたのだけれど、与えられた課題などほとんどしていかなかった。そのせいなのか、夏の勉強合宿では塾内3位くらいの順位を取ったのに中学受験には落ちた。(塾内の合格者は十数人)
私はそれに対して「挫折」とか「後悔」とかを感じなかった。だって真面目に努力していないんだもん。

この恋愛だってそうだ。
色々と相談をしていた時、今までの流れを話した後に言われたことは「中途半端に優しすぎるんだよ!!」だった。
そう、中途半端に優しいのだ。
相手を突き放すでもなく、べったりくっつくわけでもなく、まるで飴と鞭と形容されるかのようなそんな恋愛。私はそれをしていたらしい。

だからこそ、「挫折」という名の別れた後の気まずさがなかったのかもしれない。
この結論は相手と異なっているけど、正解はないと思うから気にすることはないと思うよ。(元カノが読むだろうから付けておく)



ゆる言語学ラジオのサポーターコミュニティ内に「ミーム提案委員会」として建てられたチャンネルがある。
その中で提唱されたミーム(文化的な遺伝子)としての名称案として「元カノコンテンツ」があった。
その意味は明確に定義されていないが挙げられたものとして、
・生半可に知ってしまったせいで気まずさがあるコンテンツ
・あの頃はよかったなあと懐古するようなコンテンツ
がある。
日を経るにしたがって、このような念が増長されていくような気がする。


さあ、恋愛って難しいんだね。
貴重な経験でした。

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