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大義名分のない目標は悪か?

ふと立ち止まってしまうと「これ意味あるのか?」「結局何のためにやっているの?」という思考に陥ってしまうことが稀にある。
もしくは「やる気になれない」と踏み出すのも億劫になってしまうことがあるかもしれない。

それの原因、「大義名分のない目標」じゃないですか?


「『大義名分のない目標』ってなんだ」と言われそうなので少しだけ。

motivate(やる気を起こさせる・動機づける)が存在しない目標・目的・夢(将来に抱くもの)としていく。
「大義名分」には「ある行為のよりどころとなる正当な理由や道理」とある通り、今回は人をやる気にさせるという意味を込めた。


自分一人で勝手に何かを楽しいと思ってやっている分にはいいが、人を巻き込んでやるには「大義名分」「ビジョン」がなければ、基本的には動いてくれないのだ。

それを痛感したのが文化祭の運営だった。
個人的には楽しいことをひたすらにやっているような、手段自体が目的となっているようなものだから関係がなかったのだ。
しかしタスクを他の人に依頼するときには話が違う。有志でやっている以上、ただ頼んだだけでは動いてくれないような人もたくさんいるのだ。
そういった状況を目の当たりにして運営委員長と話した時、「『ビジョン』『目的』がはっきりしていないと動いてくれないよね」と言い合って納得したことを覚えている。
ただ「以前このようにやっていたから」ではいけないのだ。
もっとmotivateを作らなければならないのだ。

これは視点を変えても同じだろう。
現在進行しているロシア-ウクライナ間の戦争状態。これ自体には関わらないが、それぞれの国の「目標」の性質を異にしていることは明らかだろう。
ロシア国内で「ロシア民族の統一」という目標に対してどれだけmotivateされているだろうか?
ウクライナ国内で「国家の防衛」という目標に対してどれだけmotivateされているだろうか?
確かなことは言えないが、でも、motivateの力は想像に難くないはずだ。


誰がどうみても肩書上は受験生だ。大学の方の。
私が逸般なのだろうけれど、周りはいい大学に行こうと必死に勉強しているように見える。まわりを見る限り塾予備校に通っていない人の方が少数だ。
そんな中で、私は未だに勉強をほとんど進めないでいる。指定校推薦のような形で内定を得ている人を除けば、勉強の生活の中心に置いていない人などほとんどいないのだ。
現状はともかく、私はいい大学を目指そうなどと思えないので、中堅程度の今のままでも合格する可能性がありそうな大学に入っていくだろう。

そう、私は「いい大学に入る」などのような「motivateのある目標」を持っていないのだ。
だからこそ、勉強を進めようとかいう気概はないし、かといって受験自体を放り捨ててできる趣味のようなものさえないのだ。


motivateな目標が現状で存在しない私自身と、あとどれだけ一緒にいればいいのだろうか。
執筆完了から6時間後には提出しなければならない、no-motivateな自宅受験の模試と一緒に、大義名分のない時間を過ごすほかに今は選択肢がないようだ。





タイトル『大義名分のない目標は悪か?』について。

私は悪だと思う。大義名分のない目標は、"それ自身またはその過程に興味がなければ"やる気が出づらいものだから。
意味のないことなど無いというのは真理かもしれないが、意味を感じられないことは多くあるのだと思う。

「大義名分のない目標」をずっと心に抱えて生きていたら、生きづらくないか?そればっかりに思考を取られて人生楽しめないことは無いか?
そうなることを減らしていくためには、「大義名分のない目標」を悪として切り捨てていくことも重要なのではないだろうか。

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