現実から目を背けるように
今私が直視しなければいけない現実から目を背けるように、不意に大学生活の想像をすることがある。
大学の敷地には、近所にある大学の祭りみたいなものと、以前成蹊大学でやっていたヨビノリたくみの公開収録の2回しか入ったことがない。だから、大学の中での生活を想像することは出来ない。
したがって、私の想像というのは、人間関係にまつわることであったり、もしくは今とは違う場所でのアルバイトであったり、あるいはゲームに没頭する私であったり。
直視しないといけない現実というのは大まかに分ければ4つほど思いつくのだけれど、そのどれも気が乗らない。
受験勉強に関することを除けば8,9月中にはすべて終わるのだろうけれど、そのどれもがあまり気の乗らないことなのだな。嫌いなことではないけれど。
問題はそこなのである。嫌いではないことなのに気が乗らない。
最近になってまた再燃してきた思いというのが、「幸福が足りない」ということだ。いや、恵まれた生活をしているのだけれど、幸福が足りない。寝ても寝足りない。もはや過眠症レベル。
精神的な患いを持ったのだろうか。
それ自体に私は失望などしないしありのままの自分を受け入れる用意はあるのだけれど、変に心配されたくはないよね。気張った自分でいたいみたい。
そんな自分が好きだから多少はしょうがないのだけれど。
唐突に、特定をしてみたくなることがある。
例えばInstagramで流れた画像であったり、YouTubeで流れた街並みであったり、Twitterで流れた風景であったり。
まあそれ自体は自分の勘の鋭さを検証したいだけだから何でもいいのだが。
遺書と題して投稿されたNoteを見て、居ても立っても居られなくなり、ちょっと特定作業に走った。ある程度の範囲のことが分かったのだが、私は所詮その人にとって見も知らずの変な人。手を差し伸べようものならどうなるか分からない。
その画面の前で私は憂慮したのだ。見も知らずの人のNoteの記事を少し前に一瞥しただけの人に。それは事実であって、何らかのアクションを起こしたかったのは事実。
でも、私はその憂慮を相手に伝えることは出来なかったのだ。
その人が本当に建物から飛び降りてしまったのかどうかは分からないけれども、でもまだ存命であったとしても、私はその人という現実から目を背けた。
その現実から目を背けて、文化祭準備という現実からも目を背けて。
アルバイト先の新入社員は7月末を以って辞めた。4か月か。
正直いってとても疲れていそうだった。
私も、その状況なのだろうか?
でも、仕事を振られればそれに対してある程度全力を持って動いてはいる気がする。
その点、まだまだいけるのではないだろうか?
直視しないといけない現実は、痛いほどに襲ってくる。
一つずつ、現実と決別しよう。自分の責任を全うして、期日を以ってして終わらそう。
丁寧に終わらせれば、誰も恨みっこしないはずだ。
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