見出し画像

「怪獣8号」と「デジタルネイチャー」

 松本直也の「怪獣8号」について再び書こうと思う。

 僕は以前、この記事で「怪獣8号」についてクソミソにけなしたことがある。この作品は(おっさんが幼馴染の女性の尊敬を得るために戦うという展開から)単なる中年男性のサプリメント、もっと言えばバイアグラ以上のものではなく、「半人間」漫画(評論家の高原到が使っていた表現だ)だからこそ描き得る問題‥‥‥正義とかアイデンティティとかの問題を一切放棄している、というのがその理由だ。主人公が怪獣になるという展開と、平凡な少年漫画の最大公約数的な展開が適当につなげられているだけで、敵が「怪獣」である必然性すらない。別に「怪獣8号」が「呪霊8号」とか「悪魔8号」とか「喰種8号」になったところで何の問題もない、なぜなら怪獣がモチーフとして全く活きていないのだから‥‥‥と思う。
 この立場を翻すつもりはない。ただ、こういうことを指弾しても仕方がなかったな、とは反省している。おそらく以上の批判を松本以下の制作陣に言ったとしても、「分かってるよ、それが何だ」と返されそうだ。おじさんファンタジーを作っている人たちに、それは嘘だとドヤ顔で言っても批判力は持たなかったかもしれない。
 それと最近になって、作品の良しあしとは別に「怪獣8号」がそこそこ考える価値のある問題を体現しているのではないか、と思うようにもなってきた。
 それは一言で言えば、(創作物の上では)「半人間」のモチーフが身近なもの、当たり前のものとして浸透してきたのではないか、ということだ。それも、落合陽一の「デジタルネイチャー」を読んでそう考えるようになった。
 話はまったく「怪獣8号」から外れてしまうが、ここで「デジタルネイチャー」についての話をしたい。メディア社会学者として知られる落合陽一による情報社会論であり、彼の作品の中では難しい本で、全く教養を持たない僕には理解が及ばない部分も多かった。しかし、この本の根幹をなす概念については、いろいろと考えさせられるものがあった。

「我々は、目に見える情報だけでは、意思決定の半分も行えない。霧によって遮られた視界の不確かな部分、ヘッドライトの照射から外れた領域。それらを補うために、我々は身体の内部と外部のデータベースを参照し、全身の感覚器を相互的に作用させることで、そこから推定される世界を信じようとしている。」
(落合陽一『デジタルネイチャー 生態系を為す汎神化した計算機による侘と寂』30ページ)

 落合はタイトル通りの「デジタルネイチャー」という概念を提示する。それは大雑把に述べれば(ごめんなさい)、近い将来我々は、身の回りにある機械を「自然の一部」として捉え、指先を動かすようなごく自然な感覚でそれを使うようになるのではないか、ということだ。一見突飛なことに聞こえるが、そこまで難しいことを言っているわけではない。文中で落合が挙げている例で説明すると、例えば視界が利かない霧の中で車を走らせるとき、僕たちはGPSやカーナビを使うことで方向感覚を掴んでいる。これは機械によって視覚を補完している状態であり、この瞬間、機械は人間の身体の一部と化していると言っていい‥‥‥と落合は言う。
 僕はこの「デジタルネイチャー」の概念が、どこかで少年漫画の「半人間」のモチーフと響き合っているのではないかと感じた。つまり、現実世界の「機械」は創作物において「怪物」に置き換えられ、少年漫画における「怪物」が、人間に対峙するものではなく人間の一部として機能し、また自然にも溶け込むものというモチーフを備え始めているのではないか。
 「怪獣8号」を始めとする最近の漫画を見れば分かるように、人間と怪物が合体した「半人間」というモチーフは多くの作品に登場する。これは、本来「敵」であるものを「自分の一部」として捉えているという点で、「デジタルネイチャー」と符合している。「デジタルネイチャー」の身体拡張的な概念を直接的に描いているのが「半人間」作品だとも言えるだろう。事実、サイボーグ009とか安部公房の「R62号の発明」とか、あるいは「スパイダーマン2」の博士とか、機械×人間のキメラになったキャラクターも創作物の中では一定数見られる。
 ただそれでも、これらの作品における「機械」「怪物」は明確な「敵」として位置づけられていて、あくまで主人公がその中間地点に放り出されることで苦悩する、というドラマツルギーを反復している。しかし最近の作品では、(主人公とは別枠で)明確な正義の味方として描かれている人間が、「怪物」をごく自然に道具として使っているーつまり「デジタルネイチャー」で、人間が当たり前のように機械を身体の一部のようにして扱っているような、そんな演出が多くなってきている。
 少なくとも「東京喰種」「呪術廻戦」「チェンソーマン」の三作について考えてみれば、それがよく分かる。前提として、これらの作品は従来通りの「半人間」の主人公の苦悩を描いたものとして作られているが、それぞれの作品における白鳩/呪術師/デビルハンターの描かれ方にも特色がある。白鳩はクインケを使って戦い、夏油のような呪術師は呪霊を召喚して戦い、デビルハンターは悪魔と契約して能力を貸してもらう形で戦う。
 要するに上記三作品では、「怪物」の力を借りて戦うことが、普通の道具を使って戦うのと同じ、ごくごく自然なこととして描かれている。カネキや虎杖やデンジが「半人間」になってしまったことは悲劇として描かれている一方で、怪物を討伐する立場の人たちは、怪物で身体を拡張するということを淡々と行っているのだ(本当はこういう話題を語るには冨樫義博あたりに触れなければならないのだろうが‥‥‥)。
 そして「怪獣8号」に至っては、その「怪物」が道具ではなく身体の一部として描かれるようになっている。「怪獣8号」では、討伐した怪獣の体を再利用したスーツというものが登場する。これは「東京喰種」のクインケや「呪術廻戦」の呪霊操術と同じような身体拡張の道具なのだけれど、スーツとして描かれている関係上、より直接的に「身体の一部」になるものとして描かれているのだ。
 つまり、結果的にではあるが、「怪獣8号」は「怪物を武器として使う」というモチーフを、「怪物を身体の一部に装着して戦う」というものに進化させている。より「身体の一部」に近い形として描いているのだ。怪獣討伐隊員にとって、怪獣のスーツを身に付けて「半人間」になることは、人間と怪物の狭間に放逐されることではなく、単なる「仕事」であって、普通の武器を取って戦うのとほぼ同じ感覚なのだ。カネキや虎杖やデンジそしてカフカが、怪物を身に宿したおぞましい存在として忌避されているのとは違って‥‥‥。
 もちろん、この新しい感覚の開拓を考慮しても「怪獣8号」はしょうもない作品だ。中年男性の自意識の救済のために、怪獣はご都合主義的な「悪」として描かれており、善悪の揺らぎとか、「敵」がそこら中に遍在しているという概念自体は「呪術廻戦」「チェンソーマン」の方が徹底されている(呪霊にしろ悪魔にしろ、元は人間から出てくるし、あちこちに遍在しているという設定になっているから)。
 しかしそれでも、「怪獣8号」が身体拡張の新しい可能性をほんのちょっとだけ示唆しているようには(気のせいかもしれないが)思える。「呪術廻戦」とか「チェンソーマン」のような、「敵」が遍在しているという世界観と、「怪獣8号」の、「半人間」になることを普通のこととして描く手法をうまいこと合体させたとき、この種の少年漫画は新しいステージへ進めるのかもしれない。「デジタルネイチャー」の現実に呼応した、「敵」に対する幽玄のような新たな概念を提示できるのではないかと考える。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?