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「怪獣8号」のしょうもなさ、傲慢さ

 松本直也の「怪獣8号」を読んだ。この作品はここ十年のバトル漫画の主流を占めてきた「半人間もの」に属するが、結果から言うと近年のそれらの作品群の中で最も矮小でつまらないものに仕上がってしまっているように思える。どうしてここまでアンチにならざるを得ないのか、書いていきたいと思う。
 内容の説明から始めよう。舞台は突如出現して殺戮と破壊に走る「怪獣」が跋扈している近未来の日本で、主人公の日比野カフカは討伐された怪獣の死体を処理するスクラッパーだ。彼は幼い頃から怪獣を討伐する部隊に憧れを抱いており、そこで戦士として活躍する幼なじみに追いつくべく32歳(応募条件ギリギリ)で入隊試験に挑戦することになるが、どういうわけか怪獣の核を取り込んで半分人間半分怪獣の存在になってしまい、「怪獣8号」として討伐対象にされる。しかし彼は部隊に入る夢を諦めず、怪獣に変身できる能力とスクラッパ―としての知識を生かして試験を突破し、怪獣に立ち向かっていくことになる。
 大まかに書いてみると無難なストーリーのように思えるが、既に設定の時点で第一のつまらなさがある。それは、彼が怪獣と戦う動機についてだ。
 カフカは子供の頃に幼なじみの亜白ミナと、二人で怪獣を倒すことを誓い合ったが、ミナの方だけが駆除部隊として戦っており、カフカは自己実現できないままアラサーを迎えてしまった、というのは上に書いた通りだ。そんな彼がリベンジに挑んだとなれば目的は一つしかない。つまり、彼が怪獣と戦うのは「女性からの承認を得る」ためであり、「失われた青春を取り戻す」ためだ。要するにこの作品における怪獣は、映画「ゴジラ-1.0」あたりと同じで、満たされないまま肥大化した男性性の象徴として描かれている。
 正直、男性の狭い自意識を延々と描くのはしょうもないことこの上ない、と個人的には思うのだけれど、当然そういうテーマの作品があってもいい。しかし問題なのは、「怪獣8号」において、女の子の承認を得て自信を回復する、というどうしようもなく矮小な話が、さも偉大な目標であるかのような思い込みと共に描かれていることだ。
 例えば「ゴジラ-1.0」は、主人公がゴジラを倒す(男性性の欲求不満を解決させる)が、実はゴジラが死んでいなかったというオチがつくことによって、男性の自意識の厄介さを自嘲的に描き出すというしょうもないなりの達成を収めていた。しかし「怪獣8号」は、男性の自意識の救済を本当に延々と描いていく「だけ」なのだ。言ってみればこの作品の怪獣は、満たされないマッチョを発散するためのオナペットのようなもので、それ以上でもそれ以下でもない。30年前ならともかく、2020年代に「俺は怪獣と戦って女の子に認めてもらうんだ」と全力で誇られても、アラサーでもない僕にとっては、申し訳ないが「どうでもいい」という感想しか抱けない。
 しかしこの作品の最大の問題は別の場所にある。第一巻の解体業をしているカフカが、怪獣駆除で活躍する幼なじみをTVで見て「何で俺こっち側にいるんだろ‥‥‥」とぼやくシーンがある。このセリフに「怪獣8号」の問題の本質が凝縮されている。
 もちろん、これはカフカが(しょうもない)自己実現を達成できていないということを示すために挿入されたセリフに過ぎないだろう。しかし僕は、怪獣駆除という陽の当たる仕事が「あっち側」で、それ以外を「こっち側」であると区別する思考自体がとても傲慢なものだと思うのだ。
 例えばカフカが欲求不満を感じているスクラッパーとしての仕事も(本人も自分に言い聞かせてはいるが)縁の下の力持ち的な立派な役割だ。それを注目されやすい駆除部隊の仕事と区別して「こっち側」に押し込めるのは、はっきり言って職業に貴賤を付けるようなものであって、ちょっと前にTwitter(X)で叩かれた「底辺の仕事ランキング」と何ら変わらない。
 スクラッパー云々の話は置いておくとしても、「ヒーロー」を何の疑いもなく「ヒーロー」として、「怪獣」を手放しで「怪獣」として、「悪」として区別して描いてしまうのはさすがに安易に過ぎるのではないか。
 例えばここ十年のバトル漫画の中でも、一部の作品では「半人間」のモチーフを活用して、かなり自覚的に「正義と悪の境界」的な問題に挑んでいた。「東京喰種」のカネキはまさに、「半人間」ならではのアイデンティティ不安と流転する正義に悩み続ける主人公だし、「呪術廻戦」も「絶対的な正義」を掲げて呪いを祓っていく虎杖が挫折していく過程を描いた作品だった。「チェンソーマン」は動物的な欲望に従うデンジを通して、揺れ動く「人間」と「悪」の両立場に対してニュートラルを保つという解答を提示している。
 しかし「怪獣8号」ではカフカも市川も疑いの余地のない「正義」であって、「怪獣」もゲームのようにただ倒す対象としてしか描かれない。そもそもカフカは怪獣の化身になっても何の疑いもなく人間としての(正義の味方としての)アイデンティティを抱いていられる。この安直さはさっき批判した「怪獣を倒す→女の子から認めてもらえる」という思考回路にも表れている。別に美女と野獣をやれとは言いたいわけではないが、(カフカ自身がどう思っているかはともかく)怪獣との半人間になってしまったことが何一つとして「承認」の回路に影響を及ぼさないのはさすがに「何も考えなさすぎ」だろう。
 要はこの作品では悪い意味で「線引き」がしっかりしてしまっている。「人間」と「怪獣」、「正義」と「悪」が全くもって無自覚に区分されてしまっている。社会が複雑化して一概なカテゴライズが難しくなった現代において、無自覚にアレルギー的に閉鎖的なグループ(怪獣駆除部隊)を作り、非建設的な当事者性を増大させてしまっているのだ。
 この淡白かつ安易なドラマツルギーは、コロナ禍に連載が始まったことが背景としてあるだろう。東浩紀は、コロナ禍を経て社会全体で「閉鎖性」が肯定されるようになってしまっている、と述べた。「怪獣8号」は、サブカルチャーの世界でもろにこの変化を体現していると言っていい。つまり、閉鎖的なコミュニティに閉じこもって当事者性をひたすら主張したいと思考停止する人々にとってのサプリメントとして機能しているのだ。2020年に連載直後作品として最大の売上を記録したのもそれが一因にあることは間違いない。
 僕はこれはとても危険なことだと思うし、ネット的なコミュニティの閉鎖性をどう乗り越えるか、という問題から目を逸らすべきではないと思う。カネキや虎杖が正義とは何かをうじうじ悩むのを鬱陶しく感じる読者が、「怪獣8号」のシンプルなストーリーに惹かれることは一向に構わない。しかしそのシンプルさによって抜け落ちているものがたくさんあることもまた事実であって、様式美がもたらす快楽だけではなくそういった問題点に目を向けることも必要なはずだ。この作品にはお約束通りのドラマツルギー以外の要素が「ゼロ」だ。その結果、男性性の救済という本当にどうでもいいテーマと、前時代的なヒロイズムを肯定する思考停止しか達成できていない。
 担当編集者は「過去の自分たちがワクワクしたもの」を狙ってこの作品を売り出している、という。その「ワクワクしたもの」には、改善されるべき傲慢なマッチョイズムとか、ヒーロー漫画の閉鎖性とかも含まれている。商業的には仕方ないのかもしれないが、そういった要素をおじさん向けのサプリメントとして提供するだけではなく、きちんと何がダメだったのかを検証した上で葬送し、オルタナティブを提示するべきだと僕は思う。

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