反証可能性概念に関する整理メモ ~俺たちは雰囲気で反証主義をやっていた(かもしれない)

本記事の要旨

・科学哲学の話題でよく使われる「反証可能性」は、実はかなりふわふわした概念になっている(更に、ポパーが明確に定義しなかったこともあり、文献によって定義が微妙に異なっていることもある)

・本記事はそれを科学史・科学哲学大好きおじさんである筆者(ガチ素人)がなんとか自分なりに理解しようと足掻いた結果をまとめたメモです

そもそものきっかけ(神の存在問題)

本記事を書くことになったのは、twitteであんちべさん(@AntiBaysian)としましまさん(@Shima_Shima)とのデータサイエンスの科学性に関するやり取りを偶然目にしたのがきっかけでした。

このtweetを見た時、自身はかなり混乱しました。あんちべさんがツイ内で語られている反証可能性の概念が、自分が今まで理解していた(と思っていた)反証可能性の概念となんか微妙に違うと感じられたのが理由です。

※ちなみに後述しますが、あんちべさんがこのツイで書かれている反証可能性の定義は正しいです(以下の自身のツイは良くある誤解のひとつ)

↑ 混乱のあまり大変失礼なクソリプをしてしまう筆者(本当にすみません)
ちなみにこの後あんちべさんから後述の出典の本を教えて頂きました。

上記の結果、自身は当然のように使っていた反証可能性と言う概念を実は全く分かっていないのではないかという疑念が高まり、一度反証可能性概念についてゼロから調べ直すことにしました。

阪大の森田先生の本を確認する

とりあえず引用元として教えて頂いた書籍(阪大の森田先生の本)を読んでみると、この同書(P.40)の中では以下のように語られていました。

また逆に、反証可能でない命題もその否定は反証可能になることがある。
たとえば、
(2-9)神は存在する。
は反証不可能であり、(ポパーの基準では)科学的な命題ではない。
しかしその否定
(2-10)神は存在しない。
は反証可能である。なぜなら、神が見つかればこの命題(2-10)はまちがっていることになるからだ。しかし、「神は存在する」が非科学的な命題であるのに、「神は存在しない」は科学的な命題だというのも直感的におかしな話ではないだろうか。

また、同書(P.34)では以下のように反証可能性を定義しています。

反証可能性基準
科学的な命題は経験によって間違っていることが証明される可能性がなければならない。

混乱:反証可能性ってそもそも何だっけ

上記の結果、自分の中で反証可能性概念が完全に分からなくなりました。

・そもそも反証可能性とは、仮説から導かれた予測(テスト命題)が観察により誤っているか否か(反証可能か)を示す度合いではなかったのか?

・森田先生の本の定義では「経験によって~」となっているが、神の例のようにこうした実際の予測や観察を考慮せず反証可能性を判断できるのか?

・「神は存在する」も「神は存在しない」も経験的に証明しえないと思われるので、この例では両方とも反証不可能ではないのか?(例えば「神は存在しない」の反証として見つけた神(?)について、「それは神ではない」とイチャモンをつけて否定すれば反証出来なくなるのではないか?)

更に手近にあった野谷先生の入門書(「科学哲学の招待」ちくま学芸文庫)を当たった所、以下のような記述があり更に混乱することになりました。

反証可能性とは「当の仮説と矛盾する観察命題が論理的に可能であること」を意味する
(第10章 批判的合理主義と反証可能性 2「反証可能性」と境界設定)

微妙に森田先生の本とはまた違う定義の気がします。矛盾する観察命題が論理的に可能とはどういうことなんだ…??

▂▅▇█▓▒░(’ω’)░▒▓█▇▅▂うわあああああああ(闇に飲まれる)


ポパーの原著を当たってみる

いろいろ悩んだ結果、蛮勇にもほどがありますが、積読だったポパーの原著「科学的発展の論理」(恒星社厚生閣)を直接当たることにしました。

一応上下買いましたが、エッセンスは上です。(下は付録中心なのですが、レベルが高すぎてついていけませんでした。反証主義で確率言明を扱う下地として、ポパー独自の確率の公理論的定義とかをやりだします汗)

これを苦労して自分なりにななめ読みしてみた結果、ポパーが提示した反証可能性概念はかなり入り組んだ概念ということが分かりました。(更に、書籍の中でも個所により微妙に用法が変わってるように思われます)

※意外なんですが、ポパーは哲学者には珍しく定義にこだわらない人だったようで、定義にはあまり関心がない旨をこの本の中でも何回か書いています

一方で原著を読んだ結果、自分の中ではある程度納得して整理がついたので、完全なオレオレ理解になりますがその結果を以下に記載します。

「科学的発見の論理」における反証可能性概念

・反証可能性は以下の2つの基準で構成される(第一章~第七章を参考)
 ① 論理的基準:理論自体が原理的に反証可能な形式で提示されていること
  ・普遍言明であること(=理論が観察言明により反証されうること)
  ・自己矛盾言明でないこと(=理論内に自己矛盾がないこと)
 
 ② 方法論的基準:方法論的に理論の反証が可能であること
  ・観察可能性:基礎言明が実質的に観察可能であること
  (=観察者により間主観的にテスト可能であること)
  ・反証逃れの禁止:アドホックな補助仮説の導入をしないこと
  (ただし反証可能性を増すような補助仮説導入はOK)

 参考:論理的基準に関する説明

【用語のざっくり定義】 
「普遍言明」:全称命題の形式を持つ命題。仮説に対応。
(例:全てのカラスは黒い)
「存在言明」:存在命題の形式を持つ命題。
 (例:少なくとも1羽の黒いカラスが存在する)
・「基礎言明」:存在言明の一種。普遍言明から推論される予測に対応
 (例:2021年1月1日の京都に黒いカラスが存在する)
・「観察言明」:存在言明の一種。観察事実に対応。
 (例:2021年1月1日の京都に黒いカラスが存在した)

まず前提として、論理的な性質として以下が成り立ちます。
・普遍言明は存在言明で反証できる(証明=実証は出来ない)
・存在言明は存在言明で証明できる(反証は出来ない)

このことを前提に、現実世界においては、以下が成り立ちます。
・普遍言明から基礎言明(予測)が演繹的に導かれる
・基礎言明(予測)は観察言明(観察結果)と照合し真偽を判断できる
 ➡ 普遍言明は反証できる(実証はできない)

・存在言明から基礎言明(予測)が演繹的に導かれる
・基礎言明(予測)は観察言明(観察結果)と照合し真偽を判断できる
 ➡ 存在言明は反証できない(実証はできる)

すなわち、理論は普遍言明の形で提示される必要があります。
また、自己矛盾言明からはどのような基礎言明(予測)も導き出せるため、常に反証可能となりますが、ポパーの反証可能性の定義からは外れます。

つまりどういうこと?

上記のポパー理解が正しいことを前提にすると、反証可能性基準は、①論理的な基準 と②方法論的な基準 の二種類が存在することになります。
(野家先生の本では①、森田先生の本では②の基準にフォーカスして定義)

特に①に関しては、定義を説明するのがかなり大変であるのに加え、現在の実務上は恐らくあまり意識しなくてよい基準である(科学法則は通常、普遍命題の形式を取ると思われる)ため、あまり正面から語られてはいないのではないかと思われます。
これが科学哲学の入門書においても、反証可能性の定義が文献によって微妙に異なっている原因になっているのだと推測されます。

神の存在問題についての自分なりの暫定的結論

上記のような反証可能性理解のもとで、改めてきっかけとなった神の存在問題を考えてみました。自分が暫定的に出した結論は以下の通りです。(この辺りかなり怪しいので、どなたか詳しい方の指摘をお待ちしています…)

・「神が存在する」と「神が存在しない」のうち後者だけが(論理的な)反証可能性を持つというのは、ある意味では当たり前の指摘である気がする(そもそもそれが検証可能性を退けた反証主義の出発点となっているため)

・存在言明である「(ある)神が存在する」ではなく、普遍言明である「神が(常に)存在する」の形であれば、論理的基準から反証可能になるはずなので、ある命題とその否定で反証可能性が変わることに関しては、そこまで神経質にならなくてもいい気がする(実際どうなんでしょうか?)

・一方で、上記のような取り扱いの難しさから反証可能性を疑似科学と科学の明確な線引きとするのはやはり微妙な気がする

※実際、「科学的論理の発見」の中でのポパーのスタンスも「ある言明(理論)が科学的とみなされたいならば、反証可能性のある形で提出され、経験的に反証テストを受ける必要がある」(意訳)というものです。
(SVMにおけるソフトマージンみたいな感じでしょうか)

この辺りの境界設定の問題については、結局伊勢田先生の以下の論文を読んで少しすっきりしました。結論としては完全な線引きの基準は存在せず各科学領域で決めるというのが、ラウダン以降のコンセンサスのようです。

蛇足:統計的仮説検定において、なぜNull仮説を置くかに関する一つの説明

※このパラグラフはかなり怪しいので話半分で読んでください

やや蛇足になりますが、この話を考えていくうち、仮説検定においてなぜ帰無仮説としてNull仮説を置くのかが自身は何となく分かった気がしました。

統計的仮説検定の背後にあるロジックは、反証主義と同じモーダス・トレンス(厳密には確率論的モーダス・トレンス)であり、一般に帰無仮説には研究者の期待と反対のNull仮説を置きそれを否定するというロジックで論証を進めます。(例えばオンライン授業の教育効果を知るため、オンライン授業と通常授業の2タイプの異なる授業を行った学生の集団に「学力差がある」ことを示したいとき、「差がない」という仮説が帰無仮説になります)

この不整合について自分はずっと気になっていたのですが、これは仮説検定を伴う科学研究プロセスを反証主義の立場から理解し直すことで、上手く説明できる気がします。(以下、学力差のあるなしのケースで説明します)

仮に「(常に)差がある」という仮説(普遍言明)を示したいと研究者が考える時、「今回の調査の学力試験で両集団にX点の差がある」という命題が予測(基礎言明)として推測されテストされます。

一方仮に、今回の調査や実験によって予測と整合するデータ(例:二集団の学力試験結果にY点の差がある)が得られた場合、反証主義の立場からはそれはあくまでテストをパスしただけで、仮説の実証や確からしさの増大を必ずしも意味しません(ここが帰納主義と違う点です)

よって、逆説的ですが研究者は実験で「差がある」というデータが得られると想定しているからこそ、「(常に)差がない」という自身の想定とは一見逆の仮説を帰無仮説として立てることになっているのだと思います。

まとめ

・「反証可能性」概念は認知度の高さと裏腹にふわふわ言葉なので、ディスカッションなどで利用する際には相手と定義が異なっていないかを注意するべきかもしれない(特にポパーが語った本来の論理的基準の意味で反証可能性をとらえている人は、本当に詳しい人以外はあまりいない気がします)

・科学哲学の勉強でよく分からなくなったら、レジェンド的な学者の原著に分からないなりに一度当たってみるのが実は早道かもしれない(ポパーに加えハンソン、クーン、ラカトシュ、ファイヤアーベントあたり)

・ポパーはいいぞ(今回の件で筆者はポパリアンおじさんになりました)

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