名古屋の公務員ヤギとエンデの『モモ』

§ 日本に、山羊を大いに活用している自治体がある。

 愛知県の知人の語るには、名古屋市とほど近い農村部で、山羊が市の職員として待遇されているという。

 あちこちの広い土地で、雑草が生えたりしては困るから、山羊に食ってもらう。山羊が逃げないように土地を囲って、片隅には眠るための小屋も用意して、水は市の役人が届けてやる。「この山羊は市の職員です、給与は草、勤務時間夜明けから夕暮れまで」と掲示してある。日本も洒落た国になったものだ。

 「夜明けから夕暮れまで」というのがいい。ミヒャエル・エンデの『モモ』が示す時間の思想に従うなら、この山羊こそ恵まれた先導者だ。時間というのは数字でやたらに決めるべきものではない。

§ アルジェリアで日本企業の道路工事プロジェクトで働いていたとき、現地人の労働者たちは、夏には午前4時から朝10までと、午後遅くなってからの二つの時間帯に分けて働くようにしてほしいと、しきりに言っていた。昼前から昼過ぎまでの一番暑い時間は休憩するというのは、当然の現地のひとたちの生活のあり方だ。日本企業はそれを聞かず、同国の気象観測始まって以来の45度という記録的猛暑のなか、現場で熱中症で倒れるひとが出ても、彼らを働かせ、自分たちは冷房の効く事務所で威張っていた。

 そういう無理をしいることのない時間の観念は、未来社会には当たり前になるだろう。時計の目盛りで切り刻まれる時間などというのは、「時は金なり」と思うからこそ生まれた迷妄であろう。「時は金なり」とは、資本主義の本性であり、すべての人間をカネのためにこき使いやすく管理する道を開く指導的観念であろう。
 
 ゆえに『モモ』では、時間泥棒が、灰色の男たちの元締めとして、隠然と登場する。アルジェリアで現地のひとたちを見下してこき使っていた日本人こそ、まさに時間泥棒そのもの。灰色の男たちとは、エンデが日本のビジネスマンを見て思いついたものではあるまいか。

§ ただし、ぼくは、『モモ』には致命的な欠陥があると思う。

 灰色の男たちの素姓を明かさず、マイスターホラの家では柱時計が一斉に騒然と時を刻んでいるというのは、どう見てもおかしい。

 マイスターホラとは、ドイツ語とラテン語をまぜた造語で、「時の親方」という意味だ。どうして訳者はそう書かなかったのだろう。というのはともかく、マイスターホラの家におびただしい数の時計が秒を刻んでいるというのには、呆れる。騒々しいとは思わなかったのか。シュタイナー派の限界じゃないかと思う。時計こそは、時間を万人共通の決まった単位にばらして、交換可能にするものだ。時間を資源とすること、そして、一切を交換可能にすることは、資本主義の本性だ。シュタイナー派のエンデには、そこまでは踏み込めないのだろうが、一斉に秒を刻む無数の時計なんて、第一騒々しいではないか。なぜ、せめて砂時計にしなかったのか。

 


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