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『日本語からの哲学』について


 哲学ということば自体が、明治に入ってからの輸入品であるという事実が示すように、それまで日本人には未知、あるいは無自覚だった概念が西洋から輸入されたために、哲学的議論というものは、総じて私たちの実感のないところで行われてしまうことがあまりに多かった。
 古代ギリシャ以来、西洋では、日常のことばを吟味することが哲学には不可欠だったが、日本ではそうではないことが多い。ここに、我々の不幸がある。
『日本語からの哲学』というタイトルは、日本人が日本語に根ざした、実感に裏打ちされた思索をできるようになる方向を切り拓くか、という期待を持たせた。
 だが、本書を読むと、このような期待は裏切られる。
 平尾氏が、自分の主張の根拠となるような、ことばの吟味をほとんどすべて怠っているからである。
 晶文社編集部のひとたちは、こんなものを読んで、何かわかった気になったのだろうか。
 ことばを吟味するなら、文例を挙げ、ことばのつながり具合(コンテクスト)を変えたり、その中に使われる表現を類似の、あるいは対立する別の表現に置き換えたり、意味か形式が類似する他の文例と比較するという操作をしてみることが不可欠なはずだが、平尾氏は、文例をほとんど挙げることなく、一人合点の印象論的断定を連ねるだけなのだ。これでは、単なるご託宣である。
 国語学や日本語論をやる気はないなどと言っているが、日本語を論じるからには、日本語の例をあげるのが最低限欠かせない。それを厭うのでは、日本語を論じたことにはならない。日本語を論じていないのに、日本語からの哲学とは一体どういうことか。
 平尾氏は「です・ます」と「だ・である」の比較ということだけにしぼって国語学文献を読みあさったために、視野が狭いのかもしれない。
「です・ます」と「だ・である」のちがいは、丁寧体と常体のちがい、などとするのは、あまりに通り一遍の見方だという点を指摘していることは買うべきだが、平尾氏は、言語の構造そのものではなく、構造がもたらす多様な効果のうち、たまたま自分が気が付いた一部のものだけを、すべてのように思い込んで、主観的述懐をつらねるばかりなので、こうした構造と効果の関係もはっきり定式化されていない。半分まで読んだが、いっこうにそういう定式化は出てこないから、たぶん最後まで迷いっぱなしだろう。現に氏自身、本書の末尾で、はっきりした結論に至っていないと述べている。正直とも言えるが、あまり良心的とは言えまい。
 ことばというのは、我々にとって体の生理みたいなもので、その仕組みを自覚するのは容易ではないのだから、それについて論じるからには、もっともっと、必要な手続きを踏まえてほしい。また、そのためには、国語学ではなく一般言語学的視野をとりいれ、1968年のチョムスキーの来日以後、米国の言語学者たちが進めてきた日本語研究の成果も踏まえてほしい(*)。それが70年代いらい、言語学(国語学ではない)と外国人向け日本語教育では常識である。平尾氏はそういうものを知らず、群盲虚像を撫でるごとき国語学者のものばかり読んだのではないか。(これでは『日本語の作文技術』の再来である)。
 無駄な述懐を省いたら、この本はこんな厚みにはならない。「です・ます」と「だ・である」のちがいは正確にはどういう点にあるのか、またなぜ「です・ます」を論文に使ってはいけないのか、という問題意識じたいは、軽視してよいものではない興味深いものであるだけに、残念だし、金を出して買ってしまったことを悔やむほかない。半分しか読んでいないが、もうたくさんだ。
 なお、平尾氏は「デス・マス」と「ダ・デアル」を対立させているが、これはおかしい。デス・マスとは、たとえば「感動的デス」と「感動シマス」の対からきている。つまり、体言につけるシッポと用言につけるシッポである。しかるに、ダ・デアルはどちらも体言につけるシッポである(感動的ダ、感動的デアル)。きちんと対立させたければ「ダ・スル」と言うべきだろう。ダとデアルのちがいを強調する平尾氏の論旨(それは正しい)からしても、それが妥当であろう。こういうところにも、氏の、日本語という一言語に対する取り組みのずさんさを感じるのは私だけだろうか。

(というレビューを Amazonにアップした。*の部分に欠けていることを付け加える。チョムスキーがMITで彼の門下の逸材を投入して日本語研究を進めたとき、そこに日本の当時若手だった優秀な言語学者が参加した。彼らはそのとき、国内では傍流とされていた優れた文法家の著作などを正当に評価した。そういう文法家の説は、70年代の『日本国語大辞典』(講談社)には取り入れられたが、『広辞苑』がそれを取り入れたのは21世紀になってからだった)

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