共産主義より世界政府

 岸田文雄は「新しい資本主義」と言ったが、なんら新しいものは打ち出せない。だが、これは非常に大切なキャッチコピーである。れいわ新選組の、くしぶち万里議員と大石あきこ議員が言う通り、彼は鬼であり、資本の犬にすぎないが、これは嘲って済むことではないだろう。彼が変節を重ねていること自体、資本主義が新しくなってくれては困る連中の圧力のつよさを示しているのだろうから。

 資本主義が新しくなるというキャッチコピーはそういう守旧派にとっては、恐ろしいことなのだ。新しくなったあげくに、共産主義の未来が待っていると考えるひとたちが、右にも左にも一定数いる。

 § ジョン・レノンが「イマジン」のなかで語っているのは、そういう社会である。国家も宗教もない社会である。ただし、そういう共産主義は、人間性の洗練のはてに出現すべきものである。従ってロシアや中国のようにガサツな帝国クズレのヤカラが共産主義などというのは愚のきわみだ。それをあたかも共産主義、社会主義の典型のように言うのは、右派の悪宣伝に毒されたひとたちの俗論にすぎない。

 そういう俗論を排した上で考えてみて、未来が共産主義者が願望する通りの共産主義社会になることは、ありうるだろうか。

 答は否定的にならざるを得ないと思う。理由として、私はつぎの3点を考える。これは共産主義を理想視するひとたちをあざ笑うためではない。国家の廃絶ということだけは不可能だと言っているだけで、国家というものがいまのままでいいとか、狂った偏狭な情熱をこめて愛したり讃えたりすべきものだと言うのではない。その点では、共産主義信奉者はまったく正しいのである。でも、ぼくは共産主義はとらない。理由は3つくらいはあると思う。

1.人間は完徳の存在になりうるとは思えない。完徳の存在であれば共産主義が達成できるが(聖書の『使途行伝』にあるように「自己のものと他のものを区別しない」ということになる)、あまりみんなが望むとは思えない。そしてきっと、一部にそれを好まない者が出て来て、また悪を働くだろう。

2.コミュニケーションは完全ではありえないから、必ず社会の一部で行ういいことが、他のところで誤解され、紛糾のもとになる。

3.完徳に近い、あるいはジョン・レノンが夢見たようなまったりした社会では、ひとびとは互いに思いやり、繊細な心遣いを常識として生きるだろうと思う。素晴らしいことだ。だが、それが、一部のひねくれもの、歪んだ連中の企みに対しては、まるで無防備で、なすすべもなく虐げられ、滅ぼされる原因になりかねない。我々は心のなかに自ら悪をもっていなかったら、どうして他者の悪を予想しうるだろうか。言い換えれば、共産主義を招来する人間性の洗練そのものが社会の弱点にもなるかもしれない。

 ただし、弱点を抱えても、人間性は洗練されたほうがいい。私たちは、どんな隣人を持ちたいだろうか、また隣人たちにとってどんな隣人でありたいだろうか? 自由であり、己を失わず、つねに互いに対等平等でいられるような人間こそ望ましいのではないか。伝統的社会とは、人が人を支配し、利用搾取することを公然と是認する社会である。そんな社会のもとで、私たちはどれだけ、心ががんじがらめになり、己を見失い、不平等で差別的であることを喜びとすらするサド・マゾヒストになってきたことだろう。

 それでもやっぱり、上記の3つの理由で、国家はなくなることはない。ジョン・レノンは、国家のない世界を夢想した点で、あまりにナイーヴだったと言わざるを得ない。

 たしかに、史的唯物論が指摘するように(史的唯物論といえば、ものものしいが、いまでは常識になった考え方で、これはマルクスの功績だろう)、国家は私有財産をむさぼるために他人の生活圏を奪うということから発生したにちがいなく、悪の産物ではある。ただし、そういう悪に対して抵抗して、自分たちの生活を守るためにも必要だった側面もあったのだ。だから、いまグローバリゼーションに抵抗するためには、いろんな国がそれぞれ、また協同で資本に抵抗する必要がある。資本は人類のガン、際限なく巨大化するだけの暴走装置であるから。

 § 国家が人間のエゴの衝突を調停あるいは回避すべきであるように、国家自体のエゴも調停、回避されるべきである。天皇を奉じる国家ナルシズムに逆行するようなことではいけない。したがって、世界政府がなければならないことになる。資源、環境、核、パンデミック、そして人口過剰はそのことを指し示していると考えるほかないだろう。

 新しい資本主義とは、世界政府のもとに自由な諸個人が国家を介して資本主義を飼い慣らす社会だ。大国は次第に消滅していくべきだ。資本主義は、従順な家畜にしなければ、猛獣化する。そのことは、現今のグローバリズムによって典型的に示されている。それに対抗できるのは国家ではないか? 

 米国のような強大な国すら資本の手先だというのに、国家が資本に対抗できるか? だから、世界政府が必要なのだし、また、諸国間の勢力にアンバランスを来すような大国は退縮していくべきなのだ。

 資本主義と共産主義(右翼と左翼)の綱の引っ張り合いが不毛な理由がそこにあるだろう。共産党という党は、世界政府党と改称すべきだろう。「キョーサントー」という名称は「イメージがわるいから改称しろ」などという愚論に耳を傾ける必要はないが、上記の意味で、共産主義社会はありえないと見極めをつけ、それにもとづいて改称するならば、大きな意味があるだろう。
 新しい資本主義には新しい反共主義がふさわしい。いい加減に、反共主義も洗練されていいだろう。旧態依然の反共はいい加減に消滅せよ。イエスは新しい酒は新しい革袋に盛れと言った。インターナショナル我らがものとは、このことではないだろうか。インターナショナルは読んで字の如くナショナルを含むのである。


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