森家の女性たち
ネットでこんな記事を読んだ。
森家はかかあ天下だそうで、彼には家庭では発言権がないと言う。
なんだ、森家では文字通り、おんなの発言は長い、みんながあれこれ言い立てるってことになる、つまりは、自分の家庭のことを勝手に五輪の委員会にあてはめただけか、と笑ってしまう。
同時に、この二人の女性は男尊女卑ということをきわめて皮相にしか捉えていないし、インタビュアーも突っ込んでいない。
自分の家庭で多勢に無勢、おんなたちの言うことを聞かなければならないことと、公的な立場で女性の登用について語ることはまったく次元がちがう。なにしろ五輪関係者の会議にはおんながいないんだから。
一対一あるいは一対多では男だって女に向かってものが言えない場はあるが、社会全体、あるいは公的機関や企業ではそんなことはありえない。
生身の人間は自分が日々いっしょに暮らす人間に対しては、まっとうな理解をもつかもしれない(亭主関白、DVおやじももちろん大勢いるが、いまはそれは別としておこう)。だが、その男が本気で男女平等を考えるというのは、そんなプライベートな場での譲歩のことではない。社会で広く男女間の格差があることをどれだけ認識しているかの問題だ。だから、70年代にウーマンリブは「女から女たちへ」というスローガンを掲げたのだ。
森家の女性たちは、あくまで森氏にとっては、オレの周りにいる女たちなんだから、世間の女たちとは別、ということではないか? ババアは地球の害悪とまで毒づいた石原慎太郎だって、妻が子育てが終われば大学に行かせた。それは上流階級だからこそ許された贅沢だ。それじゃ話にならないのだ。
ここでインタビューを受けている二人の女性に、自分たちも大勢の女たちのなかの2人だという意識があるだろうか? プライベートであれば男と女はあくまで1対1としか思えないのではないか?
しかし、男は一人きりであっても男たちの一人であり、男の社会的優位性を背負っているし、女は一人であっても他の膨大な数の女たちと無関係ではないのだ。
男は病気もする、怪我もする、首にもなる、他に女を作りもする。女はそれにどう対したらいいか。そのときにならないと、自分がどんな状況に置かれているか気づきたくないのだろう・・・硬いコトバで言えば階級性、小泉内閣以来定着しているコトバで言えば格差が、そこにある。
こんな内輪のかばい立てより面白いのは、自民党の女性政治家の発言ではないだろうか?
風見鶏の稲田朋美が「わきまえない女でありたい」と言ったり、野田聖子が政権を狙うために森にやや批判的な姿勢を示したり・・・
ほんとうは特に面白いのは杉田水脈と三原じゅん子が黙っていることではないでしょうかね。もう何も言えないんだ。
そして、この姐さんのこのひとこと。真由子さん、「ちーがーうーだろー」って、いまこそ言うべきことですよね。