(短編) 弾けて飛びそうだ
俺はあまりの気分の悪さにたまらず目を覚ました。久しぶりのこの感覚だった。
明らかな二日酔いだ。真っ暗な視界がグラグラと揺れるのがわかる。
そして咄嗟に後悔する。この状況ではほの暗いことしか思いつかない。なんでこんなことを繰り返してしまうのだろうか。どこまで俺は愚か者なのだろうか。
そんな自分を卑下する類の日本語しか思い浮かばず、語彙の圧倒的な低下に我ながら辟易する。
表情筋の全部を思い切り突っ張っても薄くしかまぶたを開けることができない。ベールに包まれたような視界に映る寝室のクリーム色の壁全体を陽が指して淡く照らしている。どうにかして体を起こそうと試みるが俺の図体は泥のように溶けてしまっていて言うことを聞きそうにない。全身に力をいれて伸びをする。顔をしかめて諸々の努力の最中に鳴き声が聞こえた。愛猫が俺の腕の下で苦しそうにもがいている。
「あっ、ごめん」
俺は掠れた声帯をどうにか振るわせて彼女に詫びる。
愛猫の上から腕をどかして脱力した俺はゆっくりと背をベッドから剥いでいく。数十秒ほどをかけてゆっくり丁寧に。ようやくセミダブルベッドの淵に体を起こした俺はしばらく動けなかった。頭が揺れて、体が熱い。
ベッドサイドに放られたスリッパを尻目に裸足で立ち上がり、リビングルームに向けてペタペタと踏み出していく。ダイニングテーブルには昨夜の残骸として、溶けきった氷と思しき水の入ったロックグラスが一つと、その傍には頂き物の高級なジャパニーズウイスキーが七割がた飲み干されてあった。
どうしてそんなに飲む必要があったのだろうか。翌朝によくない状態に陥ることが容易に想像つくはずだろ。
台所にて両掌に水道水を注ぎそれで顔を濡らす。ひんやりとした感覚がオーバーヒート済みの頭を打ち水のように冷やす。
今日はおそらく長い一日になる。その幕開けがこんな形になってしまうとは。俺も落ちぶれたれたものだな。
昨日は確か、仕事でよくわからないことで怒られたんだっけ。他者の責任をなすりつけられたか、なんかだったか。不運な内容だったことは覚えているが、詳細は、
ぐるぐると思案していた俺は急な吐き気を催し、それらを中断しとりあえず水を飲めと本能が求めたために、手近の洗ってあった昨晩のものとは別のロックグラスに水道水をなみなみ注いで一息に飲み干す。
最後の一滴まで飲んでから思った。間違えた。
吐き気を抑えるために飲んだはずの水がいささか大量すぎて、収まるどころかそれがぶり返してきた。胸の辺りにつっかえてギリギリ溢れていないだけの消化物たち。
また飲みすぎたのだ。とりあえず座りたい。
俺はダイニングチェアに向かって歩き出す。ふと、トレイの上にたくさんの料理や飲み物をいっぺんに運んだ居酒屋バイトの初日のことを思い出した。あの日もこんな感じだった。溢れないように平衡感覚に全神経を尖らせていた。
今もそうだ。一点だけを見つめて。
一歩ずつ、目的地へ。
ゆっくり、ゆっくり。
大丈夫、大丈夫。
きっと、なんてことない。
あれ、待って。
あれれ、あれれれれ。
だめだ、嗚呼、だめだ。
俺は何が起きたのか理解をするのに時間が必要だった。あ〜あ。達成感と爽快感。俺は家でモドしたのだ。
熱いものが食道を逆流するのはあっという間だった。忌々しきそれは一瞬にしてフローリングを白くした代わりに、俺の気分を晴れさせた。
気持ちいい。やっと終わった。
俺はそんなことを感じた。いやいや、何が始まっていたというのだ。飲みすぎて吐いただけだろ。俺は目覚めた時と同様に体を伸ばした。
へぇ、体ってこんなに軽かったんだ。
「ふぅ」
脱力して視線を落とした先には、吐瀉物によってこの世の地獄とかしたフローリングが広がっていた。
ただ、いまの俺は気分がすこぶるいい。倦怠感を見事脱したその副産物としての吐瀉なら致し方なし。喜んで洗おう。
俺は洗面所に向かってバスタオル二枚を手にして現場に舞い戻る。惨憺たる汚物を丁寧に吹き上げていく。歌舞伎町などの歓楽街でしか嗅いだことのない独特な異臭。胃液とアルコールが混ざった匂い。
俺は一心不乱にフローリングを磨き上げていく。遠近の両方を若い体を駆使して縦横無尽に動き回る。その時、愛猫が俺の傍にいることを認識した。俺の惨事を彼女は見ていたのかと思うとなぜか恥ずかしくなった。彼女は自分の口を絶賛処理中の吐瀉物に近づけようとする。
マズいっ。
俺は寸前のところで彼女を抱き上げた。彼女は俺の両手の中で不満げに喉を鳴らしている。俺の顔を見る彼女。可愛い顔してずいぶんと大胆なことするね。今だけは勘弁してくれ。
俺は彼女をケージの中へひとまず避難させて、ダイニングの方向へ戻る。
その道中でふと、今日の午後のことが胸の中に浮かんだ。
有楽町にある外資系の高級ホテルのレストランで恋人の家族とディナー。
独身貴族として三十年以上を過ごしてきた男としては最も気が進まぬ予定だった。
「はぁ」
思わずため息が出る。
ああ。きつい。
ほんとにやらなきゃだめ?
俺がそう尋ねると、
「何言ってんの」
恋人は柔らかく笑い飛ばしていた。
笑い事じゃねぇんだけどなぁ。
低層マンションの大きな窓から差し込むのは、夏の終わりの明るい日差しだった。
俺は自分のゲロ処理をどんよりとした気持ちで再開させる。
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