(短編) 浮遊する煙
『まもなく、十九時三十分出航の、フェリー、Reimei、ご乗船開始時刻となります。ご乗船のお客様は、二階の乗船口へ、お集まりください』
僕は地元のフェリー乗り場の喫煙所にてメンソール片手にアナウンスをぼんやりときいていた。三畳ほどしかない狭い喫煙所には出張へ向かうと思しきサラリーマンがひとり、スマホをものすごい力でもって操作している。
何か文字を打っているのだろう、フリック入力の指さばきだ。デジタルネイティブ世代なのだが、僕はそれがどうしてもうまく使いこなせずに未だガラケーと同じ文字入力方法を採用している。そのためにメールやSNSでの返信が周りの人間に比べて非常に遅い。
トモキからもよく指摘されてしまう。
「フリック練習しろっちゃ」
「何回やってもできひんねん。やってたら目ぇ回りそうやねん」
「なんやそりゃ」
トモキはそう言いながら数週間前に新たに出来た恋人へ届けるべく、おアツい言葉たちをフリック入力で紡いでいた。
僕はタバコの火種をねじ消し足の甲の上に置いていたリュックを担ぐ。ビールっ腹のサラリーマンを残して喫煙所を後にし薄暗い階段を登り乗船口へと向かう。そこに並んだ八台のソファは全て、老若男女がひしめき合いその背後にはこれらか乗船を控える同胞たちが立ってスマホを触っている。僕もそれに倣って小さなボディバックからスマホを取り出す。
明るくなった画面にアミちゃんからのメッセージが映し出された。
『もう乗った?』
僕はメッセージアプリを起動して返信を打つ。
『もうすぐ乗ります』
画面を連続タップして文字を正しく並べ、送信。
それはすぐに既読になり、
『わかった』
いつもと変わらぬ淡白な返信だ。彼女もフリック入力の使い手なだけあってものすごいスピードでの返信だった。彼女がたったの四つの文字打つには二秒も必要ないのだろう。
『大変お待たせいたしました』
場内にアナウンスが響く。それと同時に乗船を待っていた人たちが一斉に蠢く。
『これより乗船を開始いたします。優先乗船の方から乗船口へお越し願います』
小さな赤子を連れたお母さんや腰の曲がった老夫婦らが大きな扉へと向かい係員と乗船の最終確認を行なっている。スムーズに乗船ができるように僕もスマホにあらかじめメールで送られていた乗船用の二次元バーコードを画面に表示しておく。
アナウンスが続く。
『続きまして、一般のお客様は乗船口へとお越し願います』
僕は先から左隣にいた、僕よりもいくつか年上と見受けられるお兄さんの後ろにぴたりと張り付く。お兄さんは自然発生的に出来上がる乗船の列に一切の違和感なく溶け込む。その恩恵を僕も受けて彼らに続いて無事乗船した。
メールに記載されている部屋番号を船内案内の地図で確認してからそこへ向かう。乗船時に提示した二次元バーコードがそのまま部屋の鍵に流用するために、僕は消してしまったそれをもう一度表示させて室内へと踏み入る。
その部屋には二段ベッドが四台ありそれぞれのベッドに一つひとつ番号が割り振ってある。みたびメールの文面を表示して自分のベッドの上に着替えやら歯ブラシやらが入った重たいリュックを放った。そしてベッドに備えられている目隠し用の丈の短いカーテンを閉める。スマホと財布とタバコが入ったボディバックを身につけて部屋を出た。
僕が部屋を探してベッドにリュックを置いている間に乗船作業は済んだようだった。乗船口もとい下船口はすでに閉められていてタラップが岸へと仕舞われているところだった。僕はその脇をくぐって売店へと向かった。自分の部屋番号を確認するついでに売店の位置も把握しておいたためにスムーズに目的地に辿り着いた。
一般的なコンビニの十分の一ほどの敷地面積の売店はお菓子や菓子パン、お酒にご当地土産などで埋め尽くされていた。僕は菓子パンの棚からチーズが中に入ったパンの袋を手に取ってそれをレジにて購入する。店員さんによりシールの貼られた商品を受け取ったそのままの足で喫煙所へと向かう。これも確認済み。
階段をひとつ上がったフロアの端っこにそれはあった。ずいぶんと端に追いやられているんだなと、それが喫煙者の肩身の狭さを体現しているように見えて一瞬、禁煙の二文字が脳裏をかすめた。
その言葉を頭の中でフリック入力してみる。
きんえん。
一文字ずつ頷きながら。
パンを強引にボディバックに入れてガラスのはまった引き戸を開けて入る。先客はいなかった。
ポケットからボックスを取り出しその中の一本を咥え先端に火をつける。一口吸って煙を吐き出す。思い立ってアミちゃんに連絡を入れる。
『いま船乗った』
これもまたすぐに既読がつき、
『気をつけてね』
続いて、
『待ってます』
いつもより文字数が多めだなと思ったが、それをこんなに瞬時に返してくるあたりフリック入力の使い勝手の良さを思い知った。
僕はスマホをボディバックへと戻して煙の相手をした。メンソールが気道と肺をひんやりと冷やしてくれる。吐き出した煙はすぐに輪郭をぼやかして冷房の効いた喫煙所の天井に溶けていく。
喫煙所には小さな窓が一つついていてすっかり夜になっている地元の模様をはめ込んだ額のようになっていた。遥か先に微かに見える工業地帯からは今日も夕闇に向かって伸びる煙突がもくもくと煙を吐き出していた。それを見て僕も煙を吸って吐く。
もうそろそろ火を消そうかなとしているとき足元が確かに揺れた。窓の外に視線を移すと夜景が徐々に遠ざかっている。船が出港したのだ。
僕がどんどんと広くなっていく海面に見惚れていると指先に急激な熱を感じた。
「あちっ」
右手の指先を見るとタバコがフィルターだけになっていて火が爪に反射していた。
タバコを灰皿に捨てて喫煙所を出るとその前にはコーヒー専売の自販機があった。僕はそこに百三十円を入れて『ホットコーヒー 濃いめ』のボタンを押す。機械からゴオンゴオンやギイギイといった音が鳴り出してどうやらこの機械の中で只今絶賛コーヒーを豆から挽いて淹れているようだった。
「おぉ」
僕が感嘆の声を漏らすと機械中央、僕の腰ほどの高さに設けられているプラスチックの小窓の中に紙製のコーヒーカップがセットされた。その上にはフィルター役と思しきコシ布が控えていた。次の瞬間そこに向かって黒い液体がチョロチョロと注がれた。
僕は腰を屈めてその様子をまじまじと見つめていた。いままさに目の前でコーヒーが、おそらく豆から淹れられている。
カップの八割ほどにコーヒーが注がれると機械が一切の動きを止めた。そして最後にピーッという音を鳴らした。僕はプラスチックの窓を開けてコーヒーカップを取り出す。自販機の脇にあったそれ用の蓋をはめ込んで楕円形の小さな飲み口から淹れたてのコーヒーを一口すすると口全体に後を引かないほろ苦さと果物のような甘い香りが満ちた。
僕は思わず息を漏らしていた。まさか大阪行きのフェリーの中でこんなに上等なコーヒーにありつけるとは。
思いがけない一杯を手にした僕は自分に割り当てられた空間へと戻り、リュックの隣にボディバッグを並べる。ベッドの上にあぐらをかきながらコーヒーとチーズ菓子パンを貪った。平日ということも相まってか同部屋の人間がいないようで、広い部屋に設けられた棺桶サイズのベッドで僕はフェリーの微かな振動を尻に感じていた。
パンを食べ尽くしお腹いっぱいになったところでコーヒーをホルダーにおいてボディバッグからスマホとワイヤレスイヤホンを取り出し体を横にした。足元に置いてあるバッグたちを押し除けて体を一直線にする。
イヤホンを耳に入れてからスマホであらかじめダウンロードしておいたドラマを再生する。巡航中は海の上ゆえにネットが限りなく繋がらないということを知っていたために暇つぶしの準備をしていたのだった。
最近流行っている海外ドラマ。あと数話で完結するというところまで来ていた。
一話見て、次を再生しようとしたところで風呂に入らなければならないことを思い出したのだが、なんともめんどくさい。なんてったってドラマが面白すぎる。そしてそれがいままさに佳境だというのだ。風呂に入っている暇など無いであろう。いま入浴ができなくても明日の朝、向こうに着く直前までシャワールームは稼働していることらしいのでそれに入ればいいか。
僕はこう結論付けた。
しかしながら、風呂は良くても流石に歯だけでも磨いておきたいな。でもそれもこの次の話を見てからにしようか。
もう一話を見て、その次の話の途中で僕は甘い睡魔に勝てずに夢の中に落ちてしまった。
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