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(短編) ノーマル

真夏のそれよりもいくらか優しくなった太陽光を浴びて今日もラジオ体操に汗を流す。近所の公園にて毎朝六時より開かれるこの催しに参加し出してどのくらいになるだろうかと、ふと考える。結婚を機に脱サラをして念願だった喫茶店の経営を始めて少しした頃からだから、もうすぐ十年ほどになるだろうか。

この年になると小学生の時分ではへのかっぱだったこの体操にもヒーヒー言いながら取り組むことになる。特に屈伸の運動では顔を歪ませられる。

しかしながら、急激な運動不足の解消とそれらを乗り越えた先に待つ未来が光り輝いているために今朝も運動装備を見にまといこの市民公園に集まったのだ。俺以外はほとんどが高齢者たちで活気こそ無いにしても皆が一日でも長生きしようと努めている姿には感銘を受けるばかりだ。

俺以上に皆さんは体も精神もキツイだろう。それなのに毎日ほとんど変わらぬ顔ぶれが集うことが俺は居心地の良さと昨日と同じ朝が来たことが無性に嬉しい。

深呼吸をして終わったラジオ体操。公園に集まったみんなで拍手と軽い挨拶をしてそれぞれが家路につく。体には中毒性のある軽い疲労感と、心にはこれで今日も一日を始められるという達成感を抱えながらアスファルトを踏む。

帰宅すると、これも毎度のことながらシャワーで汗を流し部屋着に着替えて自室にある仏壇へ線香をあげる。錆が目立ちつつあるリンを鳴らして手を合わせる。一日が始まりました。今日もよろしくお願いします。

右側に気配を感じて顔を上げると娘の悠乃が俺の隣で、おそらく俺の真似をして眼前に手を合わせまぶたを閉じていた。寝起きのままのボサボサ髪が四方八方に広がっていた。そしていつものように髪の先までキューティクルで光っている。

それを確認してから俺は再び目を閉じ念を込める。この子の一日も見守ってあげてください。そして、彼女に声をかける。

「悠乃、おはよう」

「おはよっ」

彼女は正座の状態から素早く立ち上がると俺に抱きついてくる。四歳児が放つ特有の甘い香りが俺の鼻腔をくすぐる。

「はいはい、ありがとう」

「ご飯できてるよ。早く行こっ」

俺はこの短時間で痺れた両足に鞭を打って伸ばし、彼女に腕を引っ張られるままにリビングへと向かった。キッチンで朝食の準備をしている結衣子の姿がある。

「おはよう」

「ダイちゃん、おはよう」

悠乃が一目散に子ども用椅子に座り俺は彼女の目の前の席に腰を下ろす。いつもと変わらぬ場所だ。

俺の前に結衣子が大皿を持ってくる。チョコソースがたっぷりと塗られたトースト、彩り豊かに小さな山を築いたサラダ、こんがり焼かれたウィンナーが二本。トーストとウィンナーからなんとも食欲をそそる湯気が立ち昇っている。

悠乃の分はバターのトーストとプチトマト、ウィンナーが一本と子ども用コップに半分ほど注がれたオレンジジュース。

「悠乃、いいか」

「うん」

彼女は待ちきれないとばかりに小さな体を左右に揺さぶる。

「手を合わせて」

俺と彼女が手を合わせ声を揃えて言う。

「いただきます」

「召し上がれ」

結衣子がキッチンから声をかける。彼女が高い位置で一つにまとめた白髪混じりのセミロングが艶やかにLEDの光を反射している。

まずはサラダをフォークでつつく。結衣子の実家から毎週送られてくる新鮮な野菜の数々が俺の主なビタミン源だ。それらをひとつずつ味わっていく。野菜のおいしさを知る大人になれたことを我ながら誇りに思う。そんな親の影響なのか、悠乃も食事では決まって野菜類から手をつけてくれるからありがたい限りだ。

サラダを平らげるとお次はチョコソーストースト。小麦とチョコのダブル甘々パンチで血糖値を劇的に上げる。結衣子がカリカリに焼いてくれたトーストは俺の歯が当たるたびに砕けて音を鳴らす。それの合間から小麦の風味も香り立つもまたどこまでも甘いのだった。

締めにウィンナーを二本同時に食べてしまうという贅沢。口へ放り奥歯で皮を食い破った瞬間に溢れるジューシーな肉汁が頭蓋を一瞬で包んでしまう。それは自分の衰えを認めている俺が唯一野生性を取り戻すタイミングだった。

口に残った食後感をコップに注がれたミネラルウォーターで流し込む。

「ふぅ」

顔を上げるといつもの如く、悠乃の皿の上はすでに綺麗さっぱりに跡形もなくなっていた。

「パパ、手を合わせて」

彼女に促されるまま従う。

「はい」

また、俺たちは声を合わせる。

「ごちそうさまでした」

「はい、どうも」

キッチンでの仕事を片付け、自室にて身支度を済ませた結衣子がリビングに戻って来ながら嬉しそうに言った。


結衣子が家からほど近い幼稚園に悠乃を送りに行っている間に俺がダイニングテーブルと使用した食器たちを片付ける。これもいつもと同じ。

食器をシンクに置いて台拭きでテーブルを拭く。椅子を整えてからシンクの前に立ち、スポンジに食器用洗剤を馴染ませ食器を洗う。一通り洗ったら食器をすすいでタオルの置かれたカウンターにて乾かす。キッチンの奥についている出窓からは色好きだした葉が風に吹かれ揺れていた。

シンクとカウンターに散った水気をキッチンペーパーで拭き取っているとタイミングよく結衣子が帰宅してくる。

「ただいまぁ」

「おかえりぃ」

玄関に声を返す。

結衣子は先ほど俺が座っていた席の隣の一脚に座る。

「ちょっと待ってね」

「は〜い」

俺はキッチンのキャビネットからコーヒーのドリップバッグとマグカップを二つずつ取り出す。カップに水を入れてケトルへと注ぐ。それを二往復。ケトルのスイッチを入れる。

お湯ができるまでの数十秒間にドリップバッグをマグにそれぞれセットする。

カチッとケトルのスイッチが戻りお湯が沸いたことを知らせる。ノズルが細いケトルから直接ドリップバッグへとお湯を注いでいく。

ここで喫茶店のマスターは腕の見せ所。まずは全体的に少量のお湯を馴染ませる。十秒ほど蒸してから本格的に淹れていく。最初は湯の量を少なめで徐々に増やしていくがここは時間との勝負。お湯をドバドバ入れてしまっては要らぬ雑味が混ざってしまう。ゆっくり、コーヒーの声を聞く。

そして頃合いを見てバッグをシンクへ捨てる。両手においしそうに湯気を上げるコーヒーが入ったマグカップを持ってテーブルへ。

「今日もいい香り。ダイちゃんありがと」

結衣子が俺の隣で微笑む。

「どういたしまして。冷めないうちに召し上がれ」

「はい、いただきます」

彼女は淹れたてのコーヒーを空気と共にズズっと流す。カップから上げた顔は満ち足りている人のものだった。

「どう?」

「うん、とっても美味しいよ」

嬉しかった。何度でも君から聞きたい言葉だ。

「よかった」

俺も自分のものを飲む。いつも取引している豆屋さんから譲ってもらった海外の高級ブランドのものらしいのだが、流石に美味しかった。コーヒーらしい苦味がスッと軽く抜けていって後を追うように果物に似た甘い風味がやってくる。しかもそれらはすぐに鼻から抜けて行ってしまうためにもう一口、もう一口とどんどん飲み進んでしまう。そしてあっという間にカップの中は空っぽになる。

充実感が心を満たすがもっと飲みたかったなという淋しい思いも共に湧き立つ、そんな一杯だった。

「もう飲んじゃった」

隣の彼女へ言う。

「私も」

結衣子も笑顔を返してくれる。彼女の小鼻に刻まれた皺が俺たちの過ごしてきた年月を物語っていた。

俺たちはそこから喫茶店の就業時間になるまで話をする。未来のことと悠乃のことがメイントピックになりがちだ。次の連休で三人で温泉旅行に行こうということと、悠乃が縄跳びにハマっていること。いくらでも話ができてしまうのが嬉しい悩みだった。

俺は時計に目をやって結衣子に言う。

「さぁ、準備しようか」

結衣子も時計を確認すると、

「あら、もうこんな時間だったのね」

と、笑う。

俺たちは席を立って各々でマグカップをシンクまで持っていった。

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