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(短編) きっと明日は

彼のことを考えるだけでこんなに苦しい思いをしてしまうのなら、私は本人を目の前にしたら倒れてしまうのではないかと、いつも思う。

今日もそうだ。

こんなひどい雨の中、彼のもとへ気がつくと向かっていた。胸を締め付けられながら少しずつ彼に近づこうとしている。

半年間、毎週のように通うこの道。引き返す頃にはこの気持ちは限りなく薄れているのも慣れっこ。

右の小脇に潜ませたエコバックからは具材たちが息苦しそうに身を寄せ合っている。

彼はとてもいい人だ。私のことを愛してくれていると感じるし、もちろん彼女のことも愛していると知っている。

私はいつも二番手で大本命は他にもいる。それは淋しいけれど私はそれ以上は求めたくない。

そんなことをすればきっと彼と同じ時間を過ごすことはできなくなることを知っている。男は皆、面倒な女は嫌いなんだ。

さっきより雨脚は弱まったが、以前本降りの模様。傘に阻まれてよく見えないが、曇天の空は私の心情にベールをそっとかけてくれているようで、優しくて心強い。

何だか秘め事みたい。水溜りを慎重に避けながら歩く昼下がり。





マンションの呼び出しボタンを押す。903。大好きな数字。オートロックのカメラは見ないようにする。

ブウォン。

向こう側からは何の応答もなく自動ドアが開く。いつものこと。

エレベーターの上矢印を押すと数秒してドアが開いた。9。

ドアが閉まり、再び開いたら目の前の扉、そこは中野家の愛の巣。たびたびおじゃましてます。

玄関のインターフォンを押すと中から、

「開いてる〜」

と、声がする。

ガチャ。

ノブおろしてドアを引く。明かりの消えた廊下の先のドアのすりガラスから溢れる光。あそこに早く行きたい。

靴を脱ぎ何となく足で揃えておく。

勇む足を堪えゆっくり進む。

ドアを抜けた先のすぐ近く、ダイニングテーブルでノート型パソコンに向かう彼がいた。メガネをかけた真剣な眼差し。

チラッとこちらを見やる。

「いらっしゃい」

いつもの優しいトーン。これこれ。これの声が聴きたかった

「おじゃまします」

あいさつは人間関係の基礎だ。

彼は徐に立ち上がり私に近づく。心臓の音がうるさい。

長い腕に力を込めて私を包んでくれる。

彼の腕の中はいい匂いがする。バレないようにゆっくりと肺の深いところまで空気を送る。この思いを忘れたくはないなぁ。

彼は私の髪の毛の匂いを思いっきり嗅いでいる。ふしぎな気持ちが私を飽和する。

私を解放した彼は私の肩に両手を置き目を見つめてくる。それはいつになく真っ直ぐな瞳だった。

どうしよう、耳を塞ぎたい、目を閉じたい。

「この関係を今日で終わりにしたい」

彼の言葉はいつも優しかった。

「俺、もう家族を裏切れない」

聞きたくなかったようで聞きたかった言葉。今度の声は冷たい。地球を洗い流す雨音が大きく感じる。

彼は強引にキスをしてきた。私の体から力は抜け落ち、抱えていたバックや重荷がドゴッと鈍い音を立てて床に叩きつけられる。

彼のかけたべっ甲のメガネが私の鼻にあたるが、それも愛おしく思う。

流し目をダイニングテーブルに落とす。

いつもは隠してくれていた写真立てに入った三人。

彼と奥さんと二歳ぐらいの男の子がみんな満面の笑みで閉じ込められている。

私はこの中には、絶対に入れないのだ。




[終]

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