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(4/4)独りで歩く、誰かと走る。

もうすぐ三歳になる真波を抱いているのが脇阪家に馴染んできた。脇阪一家は笑顔の絶えない空間がよく似合っていた。その一員に真波を加えられたことを誇りに思う。

私の膝の上で進次郎さんの絵本を思慮深く読み込む真波。サラサラの髪がつむじを中心に渦を巻いている。

顔を上げると真波に対してみんなの視線が釘付けであった。私の娘なのだから当然だ。左隣のリョウちゃんはいつの間にか机に突っ伏して寝込んでいた。居酒屋の店長さんがここまで酒に弱いとは。

「マナちゃん、面白いですか?」

くみ子さんが真波の顔を覗き込んで尋ねる。

「まだわかんない」

「わかんないよな」

進次郎さんがフォローを入れる。

「じぃじの本はいっぱいあるから幾つでも持って行っていいからかな」

リョウちゃんのお義父さんは絵本作家で自分の著作をいつの日か孫に読ませるのが夢だと語っていた。それが今現実として目の前にある。しかしまだ彼女には伝わらない。辛抱ならないとシワを作った顔が言っている。

「可奈さん、ウチにある絵本は持って帰っていいからね」

くみ子さんが今度は私に目線をくれる。

「本当ですか、助かります。毎晩読み聞かせます」

「また感想教えてな」

進次郎さんは未だ真波に夢中なご様子。職業柄もそうだが単に何処の馬の骨かもわからんような女よりも初孫の方に気持ちがいくのは当然か。


年が明けて千葉にある脇阪家に帰省した。元日の夕方に到着し二泊して三が日を過ごした。親戚の方々にご挨拶をし真波へのお年玉をいただいた。

リョウちゃんは四日が仕事始めだったので三日の昼間にご実家を後にした。リョウちゃんの右肩にかかるトートバッグには九冊の絵本が入っていてえらく重そうだ。帰りの電車内でその中から一冊を取り出し早速読み聞かせてみる。


その日から順繰りで絵本を読み聞かせた。一ヶ月もすれば真波的お気に入りが見つかった。

少年が可愛くデフォルメされた車に乗って色々な動物と仲良くなり、最終的にはみんなで森でパーティーをする話。キャラクターの声を演じ分けるのに骨が折れたが、オーバーに演ると真波が笑うのでどんどん過激になっていった。

ある日リビングにいたリョウちゃんも参戦して二人で読み聞かせた。

「どっちが上手かった?」

真波に尋ねるリョウちゃん。

「ママ」

「そりゃそうだよね〜」

付け焼き刃の演技にこの私が負けるわけがないだろ。

その後リョウちゃんは拗ねてリビングに布団を敷いてひとりで寝た。本気で私に勝ちに来たんだなと愛らしく思う。少しの間忘れていた感情が胸を打った。

表参道でクリスマスディナーデートをした帰り道。

あの日のリョウちゃんはなぜだかすごく気合が入っていた。まず目の色が違った。オスの目をしていた。決して逃すまいと言っていた。

その理由はデートの最終盤にわかった。

「結婚しませんか?」

錦糸町駅北口を出て並んで歩く二人の間の沈黙を破るようにリョウちゃんは言った。

私は思わず立ち止まる。鼓動が早くなる。頭が全く働かなかった。気がつくと道の真ん中で涙を流していた。

「ど、どうした。なんかまずいこと言った?」

本気で焦るリョウちゃんが可笑しくて吹き出してしまう。

「ありがとう。本当に嬉しいです。結婚しましょう」

リョウちゃんはアパートまでの道中にある花屋さんで四本の切り花の束を作ってくれた。


それから程なくして脇阪家にご挨拶に伺った。ご両親のお名前を伺い敬称をつけて呼んだ。

進次郎さんは地元の食品関係の会社で働いていたが、三十歳を前に脱サラし絵本作家に転身した。最初は鳴かず飛ばずで親戚中から腫れ物扱いされた。もちろん絵本だけでは食べていけず、工場でアルバイトをして食い繋いでいたらしい。

そんな時期を共に過ごしたのが当時の編集者だった、現奥様のくみ子さんだった。進次郎さんが理不尽に当たることもあったそうだがくみ子さんは辛抱強く彼を支えた。

徐々に著作が売れ始め脱サラから五年後、ようやく絵本一本で食べられるまでになった。くみ子さんも心の底から喜んだという。そんな二人の元にやってきたのがリョウちゃんだった。今で言うところの授かり婚だ。

一人息子なだけに大きな愛を受けて育ったリョウちゃん。当人は私の隣で恥ずかしそうにしている。

私はこんな素敵な家族の一員になれるのか。

「またいつでも帰ってらっしゃい」

くみ子さんの温かさに心が弛緩する。

「ありがとうございます」

また気がつくと涙が流れた。


籍を入れて私たちは同居のため引越しをした。私は短大時代からしていたルームシェアを解消し、リョウちゃんはあのアパートを出た。

リョウちゃんの職場のある新宿駅まで乗り継ぎなしで行けて、子育て向きの緑の多い場所という条件で物件を探し、JR中央線の国立駅から徒歩七分の物件に決めた。そこまで広くはないが贅沢をしなければ不自由しない大きさの間取り。家なんてヤドカリのように少しずつ大きくなっていけばいい。その時々に適した物件はちょっと本気を出して探せばすぐに見つかるもんなのだ。


それから六年の月日が過ぎ真波は今度の四月から幼稚園生になる。
幼稚園選びや説明会などの諸々の準備がたたり、現在役者活動は休止している。産休と育休を行使している状態(そんな制度我ら弱小劇団にはっきりとはないのだが)。

日頃はリョウちゃんが稼いできてくれて私が家を守っている。よくある核家族。
私は妊娠を機に禁煙、我が家も禁煙化。リョウちゃんは未だ喫煙者だが吸う時はベランダに出る。最近はタールの低いものを吸ってくれているらしい。

ベッドルームで真波を寝かしつけてリビングへ向かう。

「すやすや寝たよ」

「おう、じゃあお楽しみタイムだな」

リョウちゃんは冷蔵庫からトリスと炭酸水を取り出し手際よくハイボールを二杯作ってダイニングテーブルの対面に座る。今日も幸せに何事もなく終われたことに乾杯。



入園式の帰り家の近くの公園で花見をした。真波は散りゆく桜を追いかけて走り回る。

「今年の桜も綺麗だね」

「そうだな」

この時間を心の深いところにしまっておこう。いつかあの子が大きくなった時に一言一句違わず伝えられるように。

「パパ、あそぼー」

ずいぶん遠くから真波が声を上げる。

「よっしゃー」

私の隣からリョウちゃんは真波のもとへ駆け出す。真波にも満開の笑顔が咲く。

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