髄の年輪のモノローグ 第9回 フジファブリック『アラモルト』

 音楽ライターになってから2年ほどの間は下北沢にいることが多かった。ハイラインレコーズが撒いた種が見事に花を咲かせて、「下北系」と呼ばれるシーンが活気付いていた、というのが大きな理由。お仕事のお相手も、観たいアーティストも、聴きたい音源も、下北沢に集まっていた。(ちなみに、次点は新宿、僅差で渋谷、といった状況だった。そのあたりの話はまた追って)

 当時の下北沢では、ライブハウスにひとりでいるだけでも、様々な情報が入ってきた。フリーペーパーが大量に置いてあったというのもあるし、噂話だったり、対バンだったり、ソースは山のようにあった。当時はまだインターネットはそこまで浸透していなかったし、スマートフォンもなかったので、現場で得る情報がいちばん早くて正確だった。
 色々なところで名前が出ていたバンドがあった。フジファブリック。なんとも味のある、昭和の会社のような名前(実際に初期メンバーの方のご実家で営んでいた会社の名前が由来らしい)。で、音源を聴いてみたら、これまたなんとも味のある、昭和の歌謡曲と現代のバンドサウンドの融合。日本人には大変とっつきやすい、少々素っ頓狂な曲調と、不思議な言葉遣いの歌詞。「いやしかし何故に」という言葉がサビの頭にくることがあるとは、誰が想像しただろうか。ある種の発明だと思う。
 その不思議な歌詞を書き曲も作りギターボーカルも担当しているのが、志村正彦さんという方だという。まだお若いとのことで、とても才能のある方だとお見受けした。是非ライブを観てみたいと思い、そしてライブだとまた印象が違うのではないかと思い、機会を伺っていた。

 しばらく経ったある日、2003年の末くらいのことだったと思うが、お仕事でライブを観てきてほしいとのご依頼があり、編集者さんと共に会場に向かった。場所は新宿リキッドルームだったと記憶している。恵比寿ではなく、移転前の新宿のリキッドルーム。
 その日のライブは一般的なお客さんを入れて行うライブではなく、クローズドな、いわゆるコンベンションライブだった。とあるレコード会社が主催で、デビュー直前のアーティストのショーケースとして行われており、客席には自分たちも含めて“招待された音楽業界の人”しかいなかった。
 私には事前に「ライブを見に行ってほしい。◯◯日の××時に編集部集合」との内容しか明かされておらず、誰が出るのかは知らずに向かった。当然、会場のスケジュールを見ても内容は書いていない。誰が出てどんなことになるのか、期待半分と不安半分が混ざった気分でステージを見ていた。すると。
 あ、フジファブリックだ。
 フジファブリックがステージに立っていた。

 メジャーデビューを控えたフジファブリックのライブは、既に安定感もあり、しかし少々微笑ましい部分もあった。あの日の志村さんのMCは未だにはっきりと記憶に残っている。
 「……フジファブリックです……ええと……あの……その………」
 終始ずっとこんな感じで、いつの間にか観ているこちらが手に汗を握っていた。がんばれ志村さん。やりづらそうだけど、がんばれ。
 彼(彼ら)としてはアウェイ感があったのかもしれないけれど、個人的には満足だった。あの曲も聴けたし。

 その後の彼らの活躍については私が改めて書くまでもない。そして、その後の志村さんのことについても、私が改めて書くまでもないと思う。悲しかったし、理不尽さに呆然とした。あまりにも早すぎた。まだ三十路にも足を踏み入れていなかったのに。私がはじめてライブを観てから6年しか経っていなかったのに。
 彼の命日は2009年12月24日。ちょうど10年前。クリスマスシーズンが来る度に、彼のことを思い出す。個性的で、でも涙腺に踏み込んでくる曲の数々や、あのたどたどしいMCを思い出す。


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掲載日:2019年12月22日
発売日:2004年2月18日
(15年10ヶ月4日前)
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髄の年輪のモノローグ 目次:
https://note.mu/qeeree/n/n0d0ad25d0ab4

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