【読書録】レヴィ=ストロース『悲しき熱帯』2

しかし同時に、人類が自らに言いきかせるべきだと思うのは、人間とその環境との最良の均衡に人類が到達できるのは、あらゆる科学の成果を用いることによってでしかないということです。それ以外に、われわれがそこに到達方法はないでしょう。(……)科学の成果だけが、たとえ僅かの程度にではあっても、何か似通ったものを再構成することができるからです。
(本書、30ページ)
彼らが予見しているのは、自分たちが処理するリスクの一つ一つを考えれば、未来がわれわれに巨大な悲劇を定めているなどとは考えにくい、ということである。気候変動、海洋汚染、核エネルギーや遺伝子工学が孕む危険、新しい感染症、風土病の突発。人類はこれらのリスクにうまく順応するか、適切な技術的解決法を見つけるだろう、と彼らは考えるのだ。破局というものが恐ろしいのは次の点にある。すなわち、われわれは破局が起こることを知るだけの道理があるにもかかわらず、そのことを信じられないのだ。
(ピエール=デュピュイ『ありえないことが現実になること』、111ページ、太字は傍点)
もちろん反核は必要です。しかし、反核だけでは、芸術の中に潜んでいる爆発的なものも否定することになる。そのことを岡本太郎は危惧していました。私たちは、芸術によって、核というものを越えていくことができるのではないか。技術と芸術が大きく分かれていく分岐点に立ちもどって、科学技術がつくりだすものを包摂し乗り越えていくことが、芸術の力で可能なのではないか。これは賭けです。
(中沢新一『ミクロコスモス Ⅰ』「超核の神話 岡本太郎について」、111ページ)

 最近読んでいる本は、基本的には中沢新一の本から発して読んでいるけれども、一つの方向を指さして、整列しているかのように思えてきた。つまり、人間の技術的な産物と、その無限に発展しようとする加速性みたいなものについてと、それをいかに乗り越えるかという一点である。
 少し前に流行った、加速主義というものは、この「技術を発展し続ければそのうち問題解決法も見つかるだろう」という、楽観的な見立てのもとでさらなる技術革命を夢見る、その先にあるリスクの予見が、薄々分かっているのにできていない人々と同じレベルに立っているのではないかと思える。
 この問題の周辺に、答えはあるのだろうか。

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