【読書録】井筒俊彦『イスラーム哲学の原像』

 宣言通り、読書録を久しぶりに更新しようと思う。
 だが、読書録って、こういう系の記事を書いたことのある人はわかるだろうが、その場で読んでその場で書くという感じより、だいたいひと月前までの以前の蓄積から、引っ張り出して再生するという感じの方が近い、その場でいっぺんに読むというのは、自分が相手にしているような本だと難しい。今急に書こうと思っても、その以前の蓄積というのがなければ、急には立ち上げられない。
 とはいえ、これから書くものは、昨日必死こいて読んだ本についてである。言っていることが矛盾しているが、どちらも事実である。
 井筒俊彦という、知っている人は知っている、イスラーム、あるいは仏教、そのあたりの宗教学、言語学、哲学、その他の研究者で、そのすごさは、イスラームの経典「コーラン」を、一人で訳しきったということに尽きる。なに、キリスト教だっていろんな翻訳があるじゃない、そんなに珍しいことなの? と思う向きもあるかもしれない。この二つの宗教では、聖典のあり方、言葉の存在の仕方が全然違う。一言でいえば、イスラーム教の方が、直接「神の言葉」であるという認識が強く、よって、神の言葉を改変する、あるいは注釈、単純に解釈するという点においてさえ、縛りがずっと厳しい。なので当然、翻訳するということに関しても、ずっと自由度が違う。そんなものの翻訳を手掛けたというのだから、井筒先生はすごいのである。
 僕の中での、ものすごく雑な井筒俊彦像を稚拙に書いてみたが、ここにも表れている通り、僕は比較宗教学というものを専門でやっているわけでもないし、素人なりにそこそこ知っているとも言えない。だから、齧りかけの知識で何かを語るのは恥さらし以外の何物でもないのだが、ある時からそういうことはまったく気にしないことにした。

 本題に入るけれども、本書『イスラーム哲学の原像』は、おおよそこの題名の通りの、講義録のような形式の新書なのだが、いわゆる新書の、入門書的なものを思い浮かべると、全然感じが違う。確かにこれは入門的内容ではある。しかし、完全にコアな所に足を踏み入れている上での入門的内容なのである。ということは、入門とはいえ難しいことを言っているのか。というと、そういうことではない。真摯に学びたいと思う人には、親しく返してくれることだろう。だが、何というのかな、他のいくつかの、井筒俊彦の入門的な本でも感じたことではあるが、一冊読み終えて、それで曲がりなりにも、何か一つの全体が明らかになったとか、押さえるところを押さえることが出来たという感触が得られないのである。しかしそれは、本当にこの領域が広大だということを知っているからこそ、そう書けるのであって、めちゃめちゃ上手な按摩師が、たった一つか二つのツボを押さえただけで、全身に変化が訪れるという事態に近いかもしれない。
 たとえ話をして、余計に頭の悪い文章になっているが、井筒俊彦以上に、この領域について書いている人で優れた人はいないと思える、広大でいて、理解がこの上なく深い。ただ、それを肌で感じるので、読んだときに覚える感想というのが、何かを知った、何かを理解することが出来た、ということでは全くなく、今知ったことが布置されている、広大な領域について感じさせて、知っていることより、自分が知らないということの方を痛く感じさせるという方が強いのである。

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