【読書録】フロイトから逃れたつもりがフロイトに戻ってくる

 気分転換というか、少し気ままに本が読みたくなって、あるいは、つい今しがた本の整理をしたからという物理的な動機もかかわってくるのかもしれない、とにかく西谷修の『不死のワンダーランド』を読み始めた。いや、前に半分以上読みかけていて、放っていた。こんな本はたくさんある。あまり途切れ途切れに本を読むのはよくないと決め込んでいたけれども、割合悪くもないかもしれない。本の種類による。ある種の散漫な意識に貫かれた本は、むしろたまに開くとか、読んでは閉じてとした方が、効果的なこともある。実は、人間の興味というのはそういった散漫なあり方の方が本質的なのかもしれない。一日の色々な日常的な雑用を見てみれば、それぞれ全く別のことをしているのに、どこか統一されている。時間軸そのものを見ると、途切れ途切れに見えるけれども、たとえば毎朝目覚めてからの行動とか、毎回朝にしかしないけれどもそれはそれで継続されているような感覚を覚える、何かを集中して続けるというのは、あまり神経には合わないのかもしれない。『不死のワンダーランド』も、とても大きな枠としては、いくつかの主題を語っているけれども、ひとつひとつの章は独立していて、再び開いてもなんというか、この本が持つグルーヴにすんなりと入っていける感覚がある。いや、それっていうのは、要は没入度の違いかもしれない、ここまで読み進めるのに、けっこう集中して読んだ、世界観がこちらに沁みてくるような読書だったのを覚えている。それだから、既に自分の中に、このモードが働いているのかもしれない。今、「〈不安〉から〈不気味なもの〉へ」という章を読んでいる。ところが、始まってから三ページで、ああ、またフロイトかとなった。題名から明らかだ、恐怖譚の分析として有名である、フロイトの「不気味なもの」という文章に関する言及だということは。しかし、ぜんぜん気が付かなかった。今までフロイト全集を読んでいて、フロイトの書き物というのは、逆に、妙に集中力を必要とするから、疲れたので目を離すつもりでこの本を手に取ったのに、何だかひとこと「フロイト」とつぶやいたら、付きまとってくるかのようだ。

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