【読書録】井筒俊彦『イスラーム哲学の原像』

 哲学というのは、たしかにある学であるけれども、それと同時に、ある体験でもある。
 そう仮説を立てた。仮説といっても、自分で考えたのではない。もしかしたら、誰かが別の言葉で言っていたかもしれない、しかし、どう言葉を費やそうとも、世の中にはその考えは浸透していないのではないか、と思うから、ここで自分で改めて考え直してみたい。誰かが、確信をもってそう言うのかもしれないが、自分もそれを辿り直してみたい、そう思うのである。

 そして、ここにヘーゲルが、どう関わってくるのか、ということも、そのうち考えてみたい。

 この、哲学は、静的な座学的なものではなく、体験そのものである、という発想のもともとは、おそらくニーチェである。
 ニーチェは、「ツァラトゥストラ」の中で、月のような白い顔をした形而上学者よ、といって、生きる生々しさのない、数学のような哲学に対して、それ自体が舞踏であるような哲学、というか超人そのものであることを目指した。
 いや、目指した、と言い切ってよいものだろうか。自分の中で、さらに発展させると、ニーチェは、書かれたもの、それ自体が舞踏であるような哲学書というものも、目指したのではないか。

 哲学は体験である、となぜ今になって強く思ったのかというと、前も触れた、井筒俊彦の、イスラム神秘主義について解説している、「イスラーム哲学の原像」を読んだからである。
 イスラーム哲学は、これによれば、存在一性論という、もちろん他の派閥もあるが、そういう立場の人から立ち上がったもので、それというのは、イスラーム教の修行の中で、世界の深層を、事物の多様性の奥にある存在の一性、すべてが一つの存在から湧き上がるさまを、まさに自分自身が、体験として、味わいたいという、その修行の行程と並行して哲学が興った、ということだった。
 とすれば、宗教的実践、自分が世界の実相、神を見る、ということと、世界の構造を説明する形而上学、哲学とが、並行関係を結ぶというか、まさに一致しながら進んでいた、ということになる。
 これを、イスラーム教独特の発展であると、遠巻きに眺めていても、よいのかもしれないが、そもそも、何かを知るということは、一つの体験であり、それが体系化している、あるものの哲学を知るということは、無数の知がひとつに束ねられた、ある体験の塊であるともいえるのではないか。

 そのほかで、体験というものを、哲学の上で重要視していたのは、バタイユである。しかし、ニーチェに負うところは大きい。
 バタイユが、自身の哲学の起爆剤としたのが、ヘーゲルだった。ヘーゲルのような試みは不可能だと言いたいために、いくつかの本を書いたのだと、西谷修はどこかで書いていた。

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