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コロナ大喜利と快楽物質

もう毎回コロナウィルスとその関連について書いていて、書いている自分も食傷気味なのだが、毎日寝て起きて仕事して飯食って仕事して仕事して寝て、みたいな同じ生活を繰り返していても、世界の興味深い変化に触れていろいろ考えちゃったりするのが今の時代なわけで、しばらくすると書くか、ということが出てくる。どうせ、この記事の一番上にも「新型コロナウイルスに関係する内容の可能性がある記事です。」の注意書きが自動表示されるのだろう。

BASSDRUMで一緒に活動しているsiroの松山さんを通して、この「みんマスファクトリー」プロジェクトについて何か書くご相談を頂いた。松山さんのことは愛しているし、主催されているのも以前、自分が主催するイベントにご登壇頂いたTOKYO LIGHTING DESIGN、照明デザイナーの矢野大輔さんだ。



マスク不足が話題になる(いや、楽天で買えるぞ! みたいな話もある。ニューヨークに住んでいるので、肌感覚では日本の状況は理解していない。)昨今、自分たちでマスク製造機械を調達してマスクつくるぞ! というプロジェクトだ。マスクがないから自分らでつくるぞ! というストレートなプロジェクト。

尊敬する人々が推進するプロジェクトだ。是非ご協力したいと思いつつ、一方で、何か素直にこのプロジェクトを紹介するような提灯記事を書いても世の中に対して何にもならないし、自分が最近持っている「クリエイターが世の中の危機にどう対応するか」という問題についての考えを通して、このプロジェクトや、私の周辺で起こっているいろんな活動への期待みたいのを書いてみたいと思う。

世の中、社会の危機に対して自分のアイデアや能力で何かしたい。というのは、つくり手なら誰でも持っているモチベーションで、当然私だってそういう思いがある。アイデアというのは、やりようによってはちょっとしたことでも世の中への影響や効果を2倍・10倍・100倍にできる、爆発力を伴うもので、時として実際に人を救い、社会を救う。

ところが、この「アイデア」というものは、こんなふうに薬にもなれば、毒にもなる

例えば「普段こんな使い方をしている●●をこんな使い方したら、こんなに鮮やかに社会問題を解決できるよ!」みたいなアイデアがあったとして、それが目を引く、面白い、「その手があったか!」というアイデアだった場合、今の時代だったらソーシャルメディアなどでものすごい話題になったりする。平たく言えば、「バズる」

これはものすごい気持ちいい。麻薬的に気持ちいい。なんで知っているのかというと、私自身、そういう経験をしているからだ。ときは2011年3月14日。記憶に新しい危機、東日本大震災、の3日後のことだ。

既にデジタルのクリエイターとして仕事をしていて、わりとうまいことやっていた私は、ある種、ブイブイ言わせていた時期であったと思う。同じ年の春には、PARTYという当時としては鳴り物入りのクリエイティブ会社をつくった。

3月11日、あの地震が発生した。津波が東北を襲った。その日のうちに、福島の原発に何かが起こったことが報道され、翌日・翌々日になると、事態の深刻さが明らかになってきた。今の危機とは違う部分もあったが、まあ、大変な騒ぎだった。たまに来る余震にびびりながら自宅で過ごしつつ、考えていた。

この危機に対して自分のアイデアや開発能力で何かできないだろうか。

3月13日は日曜日。良い陽気で、大災害があったとは信じられないほど気持ちの良い日だった(放射能的にはやばい日だったなんていうことも聞くけど)。近所の公園で家にいるのに飽きた長男を遊ばせていた。ベンチに座って、自分がこの状況で何かできないかをずっと考えていた。しばらくすると、ちょっと良いアイデアが降ってきた。

私はプログラマーでもあるので、このアイデアを、どのようなシステムをつくって、どのような形にすれば実現できるかをその場で考え、「行ける」と確信した。公園から家に戻って、すぐにプログラムを書き始めた。そして、夜まで集中して作業し、日付が変わる頃にはシステムが完成した。そして翌日3月14日にウェブサイトを公開し、Twitterで発表した。

それが「SETSUDENER(セツデナー)」というサービスだ。14日の段階で、震災に伴う社会課題はわんさかあったが、その中の1つが「節電」だった。東北の発電所が止まっていて、電気が足りない。東京でも計画停電がこの日から始まった。信号機なんかも含めて、街中の電気が全部止まる、みたいなことが起こった。

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歓楽街のネオンも消灯されて、東京の街は暗くなった。節電は、東北から離れた東京からできる「支援」の1つだった。だからこの日の段階では「みんな節電しよう」というのは大きいスローガンになっていた。特に、午後5時から8時までの間は電力消費のピークと言われ、しっかりとした節電が求められた。

で、「SETSUDENER(セツデナー)」はどういうサービスだったのかというと、ウェブサイトからTwitterの認証を行うと、午後5時から8時までの間、自分のTwitterアイコンが自動的に暗くなる=節電状態になる、というサービスだった。この時間帯、自分のTwitterアイコンが暗くなると、みんなが「あ、節電しなきゃ」と思い出してくれる仕組みだ。そんな仕組みを半日くらいでばーっとつくって公開したというわけだ。

これはすぐに話題になった。バズった。その日のうちにいろんなニュースに取り上げられた。翌日には海外のテレビから取材があり、電話で出演した。10万人を超える方々がこのサービスを使ってくれた。

今の世界と同じように、たくさんのクリエイターが、何か自分たちにできることを考えては実行していた。そんな、「震災クリエイター」の中で私は頭1つ抜けたのだ。私はすっかり気持ち良くなっていた。実際、ふと考えたアイデアを世に出し、それが大きな波になってくれるのは相当に気持ちの良いことだ。気持ち良いのだから仕方がない。

悪いアイデアだったとも思わないし、結構な人たちに、「節電しようぜ!」というメッセージは届いたのだと思う。しかし、一方で、正直なところ、その段階で「震災クリエイター」として一丁上がってしまったというか、自己満足してしまったところがあった。バズった。不謹慎だが、気持ち良かった。以上。サービスのアップデートも行わず、いつしか節電というトピックは重要性を下げていった。

実際のところは、東日本大震災という災害はまだ続いていると言って良くて、9年経っても復興は道半ばだったりする。この9年間、自分がこの災害にクリエイターとして向き合ったのなんて、数日間でしかない。9年間、継続して災害に向き合ってきた人だっている。これじゃあ、「震災で一発当てた人」になってしまうし、実際そんなもんだろう。9年後、振り返って感じるのは、自分の残念な軽さだ。

それでも「SETSUDENER(セツデナー)」はまだ実効性がゼロではなかったし、少しは世の中の役に立ったとも思っている。しかし、自分が活動をしていた、広告を含むデジタル商業クリエイティブの世界にはそれどころではないとんでもない自己満足事例が世界中にゴロゴロしている。カンヌ国際クリエイティビティフェスティバル(広告賞)を中心としたアイデアの表彰システムの中には、「ソーシャルグッド」というトレンドがある。そういう場所では「社会的に良いことをしているキャンペーン・仕組み」がもてはやされるという傾向だ。社会問題を解決するクリエイティブは、褒められがちだ。

で、何が起こるかというと、実際には全く実効性がない「偽アプリ」みたいなもの(「アイデア」だけはすごそうなやつ)をつくって、実際に世の中に役立ったような感じにして応募する人が出てきてしまう。

2016年のカンヌ国際クリエイティビティフェスティバルでどこかの国の「I Sea」というアプリが受賞した。ちょうどヨーロッパでシリアからボートに乗ってやってくる難民が社会問題になっていた頃、アプリを入れたユーザーが人工衛星で地中海に浮かぶ船影を探知し、漂流する難民たちを発見し、助けることができる、というもの。なんかすごそうだし、最新テクノロジーを駆使した素晴らしいアイデアに見えるが、このアプリは実際はちゃんとしたデータを利用していない「嘘アプリ」だった。これはさすがにバレて叩かれた。

こういった「偽作品」は、実際に世の中に何かしたいとかでは全くなくて、ありがたそうな賞を獲るためだけにつくられ、応募される。そういう何の実効性もないものが、世界一の広告賞で「素晴らしいアイデアだ!」なんつって賞賛されてしまうのだ。

私自身も広告賞で何度か表彰されたクチだが、世界中の業界人が集まる表彰式で名前を呼ばれて壇上に上がってトロフィーを掲げるのは、もうこれはまた、「バズって気持ち良い」と同様に、麻薬的に気持ち良い。所属している会社などによっては給料も上がる。名誉もついてくる。嘘広告でバレずに褒められて有名になった人が、そういう広告賞の審査員だかをやって人のつくったものを評価している、みたいな、地獄の釜の底のような闇もそこにはある。

で、そのカンヌ広告賞は、現在の世界的な危機に直面して、あっけなく、すんなりと、オンライン開催もなく中止。ある種、危機に対して何もできず、「平時の贅沢な祭」であったことが露呈してしまった感がある。いつも「ソーシャルグッド」を煽っているんだから、何か気概を見せて欲しかった感もある。

「アイデア」は良い方向にも悪い方向にも、何かを爆発させてしまう。その周辺にはいろんな誘惑や快楽物質があって、いろんな「クリエイター」が闇落ちする。私だって上記のように、気持ちよくなって満足しちゃった人でもある。嘘広告とかはつくったことないけど、別に褒められたものではない。

いま、世界がえらいことになっていて不安に包まれている危機的な状況の中で、日本でも、先々週くらいから毎日のようにいろんなアイデアが発表され、プロジェクトが立ち上がる。バズっているものもたくさんある。素晴らしくて実効性があるアイデアもある。私もそういうテーマで雑誌に寄稿したりしている。ここから20年、30年と続いていくイノベーションも中にはあるかもしれない。

偉そうなことを書いてしまうけど、上で紹介した「みんマス」だってそうなれば良いし、他にも近しいところでは、簡単に生産できる高性能マスクをオープンソースでつくっていこうとしている「オリマスク」というプロジェクトも、仲良くさせて頂いている博士の石垣陽さんが始めた。石垣さんは、震災の際も携帯用のガイガーカウンターをつくって普及させたり、テクノロジーを使った弱視治療に取り組んだり、私などが及ばない筋金入りの社会貢献クリエイターだ。

ニューヨークで間借りしている工場の仲間は、レーザーカッターなどの機材でフェイスガードを黙って生産しまくって寄付している。Slackで、「今日は何枚つくったぞ!」みたいのが流れてくる。尊すぎる。

そんな中、今の日本のクリエイター界(?)は、いろんな人が各々のクリエイティブなコロナ対策アイデアを競う、「コロナ大喜利」になってしまってはいないか? 何かを世に問う前に、自分の「アイデア」の実効性は大丈夫か。継続性は大丈夫か。腹は括れているか。なんていうことを立ち止まって考えるべきなのではないかと思ったりする。偉そうに言ってしまうが、なんか、「どう? このアイデアすごいでしょ?」的な「アイデアの快楽物質」の匂いがするプロジェクトが目につくのだ。

じゃあお前は何かやってるのかと言われたら、そもそもこの世界情勢においては、デジタルの仕組みは「贅沢品」から「ライフライン」になりつつある。急速にオンライン対応しなくてはいけない領域もある。デジタルで効率化することで切り開くことができる問題もある。

うちの妻は元看護師だ。2011年の3月11日も、病院に勤務していた。彼女は私と違って、わざわざ社会貢献をドヤ顔でする必要がなかった。彼女にとっては、普段の仕事をすることが社会貢献だ。当時の私がやっていた仕事は世の中に必ずしも必要ではない「贅沢品」をつくる仕事だった。

しかし今は、自分の仕事は「ライフライン」だ。急いでデジタル対応しないと困る人がいる。だから、2011年とは状況が違う。自分のところにやってくる問い合わせに誠実に愚直に対応して形にしていくことが、恐らくデジタル屋・技術クリエイティブ屋ができる社会貢献だ。実際、日に日に忙しさが増していっている感もある。

ああ、またいろんな人から怒られそうな記事を書いてしまった。働こう。


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