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【創作と仕事】やめないこと。今はそれだけで/亜久津歩

「Qai」のnote、今月のテーマは「創作と仕事」。いざ書き出そうとして、無意識のうちに「仕事」を「稼業」へと置き換えていることに気がついた。

わたしはDTPやライティングでお金をいただいている。そういった「仕事」が詩作にどのように関係・影響しているか‥‥‥を書き出そうとして、そうじゃないなと思った。今、伝えたいことは。

稼業は「仕事」の一部に過ぎない。テキストや書籍を扱う職種なので分野としては「創作」とかなり近いところで、わたしは働いている。稼業は「創作」の一助、一部になっていると書いてもさほど違和感はない。

むしろ育児と家事。今「創作」を圧迫し、侵食しているわたしの「仕事」は、断然こちらだ。育児と家事は「仕事」である。

育児と家事も、仕事である。

(これをiPhoneで書いている今も絶え間なく「妖怪ウォッチぷにぷに」について話しかけられている)

以前、三詩型交流企画サイト「詩客」にこんなエッセイを寄せたことがある。

連載エッセイ「しとせいかつ」第10回
女性詩人、は「詩を休む」のか/子連れイベントレポート

長いので抜粋する。

詩と向き合う時間くらい、私性やら属性やらといったものは剥がしておきたいのだ。自分でいうがわたしは親ばかだと思う。息子愛がたかまりすぎて時々持てあます。それでも詩は別だ。そういうものではないのだろうか。

仕事や詩人団体の関係で年配の女性の詩人とお話ししていると、しばしば「あなたくらいの頃は“詩を休んでいた”」と聞く(男性から聞いたことは、今のところない)。ゴシュジンと離婚や死別をされてからはじけるように詩や詩集をつくり発表されるケースも幾度となくお見かけした。いや、遠い昔の話ではない。子連れで(または母親が子どもを置いて)イベント参加するときのポイントとして「配偶者(~親族)の説得」が何よりのネック、という話は今でも聞く。わたしの夫や親族は詩を読むことはないが放っておいてくれるし、イベントに出ると言えば留守を頼める。これが「有り難い」ことなのである。

約4年前のものだ。状況は少しずつ変化しているようにも感じるが、今もよく見聞きするケースとして、古い記事を掘り起こしておきたい。

不満を主張したいわけではないが「好きで産んだんだろう」という〝自己責任論〟(論?)にもうんざりしている。わたしにとって今の生活は総じて幸福であるし、育児が「創作」の材料や原動力になる部分も当然ある。ただ同時に、時間、体力、集中できる環境、心の余裕、すべてを吸われているのも事実で。近ごろ最も強くもどかしさを感じるのは、インプットができないことだ。

創作をやめられる気はしないが(理想を放り出したら、らくになるだろうか)とは、時折思う。

作りながら、生きていくために。

「Qai」のキャッチコピーは4人で相談して決めた。短い時間を縫い合わせて、LINEのグループトークで何度も話し合った。わたしたちは、わたしは今何がしたいのか、これからどうしていきたいのか。

仕事――稼業、育児、家事に翻弄されても、現実生活を手離さず、創作を途絶えさせず、そのために自分を大切に、しぶとく生き抜いていきたい。そしてどんなに焦れったい想いをしても、よりよいものを書く、書けるようになることを諦めたくない。

性別や子どものありなしで人を分断したいのではない。わたしたち(以降)の世代の多くは、働いて働いて、自分や自分の家族を食わせ、生かしていくことで精一杯だろう。「仕事」によって得た金銭や「仕事」以外の限られた自由をどう割り振るか、その選択の差異に優劣などない。

「創作と仕事」が殆ど「創作とそれ以外」に等しい今だからこそ、作りながら生きていくためのあり方を模索し、実行していきたい。

やめないこと。今はそれだけで、それ自体が、一つの「創作」なのだ。

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#エッセイ #創作 #詩 #詩人 #クヮイ



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