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読書感想文|重ねる|西川火尖

角川「俳句」4月号の作品12句、神野紗希さんに次の句がある。
恋をして子を産んで雲雀野にキス
この句が少しTwitter上を賑わしたのは、柳元佑太さんの

このツイートがきっかけだった。そこからTwitter上で活発な議論が交わされたのだが、個々のツイートにはそれぞれ鋭い指摘もありながら、しかし議論自体は平行線をたどり、それぞれ言い放って解散という何ともTwitterらしい幕切れでTLの彼方に流れて行ってしまったように思う。そのやりとり自体は西原天気さんがTogetterにまとめてくれたので興味のある方は見ていただくとして、

私も遅ればせながら、角川「俳句」四月号を購入し、件の作品12句「月へ吹く」を読んだので、ぽつぽつ感想を述べていこうと思う。というのも、この句に関して、紗希さんと同じような育児中の俳人からの発言は見た限りなく、子の有無を省いて同年代者にまで観測を広げてもすっぽりと抜けているようだ。同年代だからどうだというわけでもないが、少なくともTwitter上での読み解きのどれにもしっくりくるものがなかったためここに書いておこうと思う。

恋をして子を産んで雲雀野にキス 神野紗希

この句を初めにツイートで見たときは、そんなに面白い句には思えなかった。「俳句」6月誌上の鼎談で三村純也が「勝手にせえ」というのも、句会の席上ならちょっと浮いた句に対する軽いツッコミとしてあり得るかなと思った。ただ、それを文字のみで全国に流通させてしまうのは少し「乱暴」かなと思う程度で、とにかく初見ではその程度の読みしかこの句に対して働かせなかったわけだ。しかし今ではこの句に対してもう少し別の見方を持っている。

ツイート上で柳元佑太は、この句をニヒリズムの句として捉え、そこに言及の無い三村発言を切って捨てた。それは例えば池田澄子の「忘れちゃえ赤紙神風草むす屍」が文字通りの句としてしか評されない世界を想像すれば、柳元の苛立ちのいくらかは理解できるのではないかと思う。
忘れちゃえ」句は、上五の投げやりな言い口をフックとして、池田澄子の思想を知る者には容易に、それが逆説的な句であることが分かるようになっている。これと同じように柳元説は、「雲雀野にキス」を現行構造(旧来的価値観)への屈服と捉え、地べたへのキスを「軽やかに楽しげ」に描く作者への違和をきっかけに、神野紗希が他の著作で表明しているとする「フェミニズム的な知見」につなげ、逆説的な読みを試みているところに特徴がある。つまり、作中主体があえてそのように振舞うことで、そこに集まる視線や「勝手にせえ」という無理解を際立たせるという手法だと理解した。
 しかしそれは、青本柚紀の徹底的な批判を浴びる。青本はそもそも「恋をして子を産んで雲雀野にキス」自体をフェミニズムの文脈に置くことができないと述べ、「恋をする・子を産む、のいずれも、現在の家父長制にいて規定・利用されてきた“女性性”と深く結びついてきたものであるからです。その文脈を受けて最後の〈雲雀野にキス〉まで読むと、母親という機能に主体が回収されたようにすら見える」と続ける。そのうえで、下五の「雲雀のにキス」を身振りであるとしたものの、そこにニヒリズムを見いだせる人はやはり、家父長制的な構造から距離を置くことが比較的容易である人であり、その特権性に無自覚な読みを看過できないと述べている。

ところで今現在、この社会において、子供を持つことに合理性はあるだろうか。よほど経済的に恵まれているか、優れた教育環境を用意できる目途がない限り、合理性どころか、まともに育てることすら困難であるというのが偽らざる現実である。もちろん子供を作り、育てる理由は、それが合理的だからではないのだが、知性が出産を躊躇させているように感じた経験を持つ人は多いのではないだろうか。私はそうである。それにも関わらず、ある意味理不尽に私(達)は子供を作った。

話を元に戻そう。柳元佑太はフェミニズムの文脈を用いて、この句の読みを深めようとした。そして私もこの句が「ただただ現状肯定的でベタな母性賛歌の句」ではないと思っている。ただそれはフェミニズムの文脈で読み解くのではなく、新興俳句の技術と批判性を援用することで可能になると考えている。そして神野紗希は新興俳句の研究者としても知られている。「月へ吹く」作中の「風尖る梟は絶望しない」の詩情、「閣議決定ぜんまいは左巻き」の批評性はまず間違いなく作者が新興俳句から取り込んだものではないだろうか。

水あれば飲み敵あれば射ち戦死せり 鈴木六林男

この句は、戦場で生き残るため、水を探し飲み、敵を射ち、転戦しながらも理不尽に死地に追いやられ地面に突っ伏して死ぬ、戦争に翻弄された兵士の生死を描いた句である。「水あれば」「敵あれば」と畳みかけながら条件反射的な行為を強いつつ人間性を奪い、すぐに死へ流されていく様は俳句の短さもあって抗いがたい圧力を感じる。神野紗希がこの句を意図したかどうかは全く分からないがしかし、意図の有無にかかわらず構造的に似通った俳句には当然似通った俳句の力学が働き、その効果も同様である。似ている点は、状況の畳みかけとラストの地に伏す終わり方、違う点は神野句の方がより主体的に行為を選択している点である。この相違点を念頭においてもう一度「恋をして子を産んで雲雀野にキス」を読んでみよう。「生死のかかった戦争とお気楽なキスの句を同列に語れるのか?」というこの期に及んでまだこの句を「キラキラ育児俳句」か何かだと思っている人もいるかもしれない。しかし、出産は現代でも命がけの行為である。構造の類似のみならずテーマにおいても深く繋がっている以上、比較して語らない方が私にはむしろ不思議なくらいである。
この句には、恋愛し、生活し、畳みかけるように出産を選択し、ある日地に伏すように倒れ地べたに接吻をする作中主体が描かれている、そしてその目に、自由に飛ぶ雲雀が映るという様を想像できる。この社会で生きていくことの困難さ、転戦さながら状況に流される様子を感じさせつつ、しかし「水あれば」より主体的に選択しているため、弾むような句になってしまうのは子育てそのものをよく表しているように思う。もっとも、これを完全に自由で主体的な行為とまでは呼べないと思っていて、それはやはり「恋をして子を産んで…キス」の転戦さながらの畳みかけが効いているからではないだろうか。それを「勝手にせえ」では雲雀野は白骨死体だらけになるだろう。

育児は私にとってはっきり言って絶望である。それなのに、子供が一瞬で世界をきらめかせてしまうことを良く知っている。

この社会で育児をするということは、ときにはこの絶望的な社会に対して肯定的にならざるを得ない場面があり、それがこの歪んだ社会をより良くしようという人の反感を買うことはあると思う。育児詠というより現代の育児の難しく厳しいところだと思う。

この社会に絶望しているにもかかわらず、時には美味しいものを食べ、創作し、妻や子と語らうときに幸せを感じる。押し流されるように子を育てる中で、社会の歪みを理解することと、社会の流れの中で育児をすること、これらは決して矛盾するものではないと思う。

ちなみに、Qaiの7月のテーマは「読書感想文」です。一番手は私、西川火尖で、題材は角川「俳句」4月号の神野紗希「月へ吹く」から「恋をして子を産んで雲雀野にキス」でした!!!
7月もここから超々面白い記事が続くので、ぜひお読みください!!

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