結婚は不幸への入り口
常々思う。「女性は愛する男性と出会い子供を産むことが人生のゴール」は真なのか。太古の昔から、男性は外へ出て狩りをし、女性は家と子供を守る。現代社会においては、男性は社会人として稼ぎ、女性は家事育児をして旦那を支える。これらが「世の常」として今日に蔓延している。ましてや「婚姻制度」がそれらを事実らしくするための最たるものであり、女性が男性の家庭に入るという事が常識として世の人々に浸透している。
だがそのためにどれだけの犠牲が払われているか、目を瞑っている人間が多すぎるのではなかろうか。
第一、女性は婚姻の際に男性の苗字を名乗るという風習がそもそもおかしくないだろうか。私自身も経験した身であるが、苗字が変わるとそれに伴う法律上の手続きに大変時間と労力が喰われるのである。戸籍はもちろん銀行、学校、職場など社会生活を送るためのものに一斉に手を加えなくてはならない。また、手続きだけが済めばいいという話でもない。周囲の認識までも変える作業が必要なのである。今まで「○○さん」と呼ばれていた人に急に「△△さん」と呼べと周りに押し付けるのである。職業上結婚前の姓を使う女性も多いが、それもその女性が周囲の困惑を避けたいという温情の上に成り立っているとすら思えてくる。ましてや結婚というと「おめでとう」と言われるわけだが離婚やその他の事情であれば「なんで」「かわいそうに」となるわけである。つまりこの2つは本質が一緒であるにも関わらず「結婚が喜ばしいこと」のイメージだけで前者が美化されすぎではなかろうか。
第二に、子供を産む行為はこの世で最もギャンブル要素の強い事ではなかろうか。
生物学上、出産をできるのは女性のみである。この事実は揺らぎないものであり今後も変わる事がないであろう。「お母さんはあなたを痛い思いをして産んだ」「産んでくれたお母さんに感謝しなさい」生きていればどこかで聞くフレーズである。だがこれらの言葉は紛れもない洗脳ではなかろうか。子供側からすれば「生まれてきたくて生まれてきたわけではない」「両親がセックスしたから出来た」のである。事実、私は「お前なんて生まれようが生まれまいがどっちでもよかった」「ママはあんたが出来たからパパと結婚してやった」と言われて育った(無論まともな親はこんな事言わないであろう)。私はこの言葉を聞かされた日から「自分はこの世にいらない子だった」と思うようになった。来る日も来る日も自分が生まれてきた意味を探すも見つからず、いつになったら私は死ぬんだと思うようになった。子にとって親は絶対の存在であり多くの子はその背中を見て育つ。だから私も生まれてきた自分が1番悪いと思っていた。だがある日気づいた。そもそも勝手に子供作ったのは両親であると。そしてその責任を子供になすり付けてるだけだと。「こいつら自分達が責任負いたくないから、私を悪者にしてるんじゃん?」と思える様になったのである。つまり無意識の催眠を生まれた瞬間からかけられているようなものであり、その催眠は両親だけではなく社会全体をもってかけているようなものである。生み生まれの関係という客観的事実は変える事が出来ない。だが社会が一方的に「親に感謝しろ」という歪んだ道徳観をつきつけるがゆえに、子供、とりわけ被虐待児は苦しむのである。
また、生まれてくる子供がどんな子かは誰にも分からない。出生前診断や遺伝子検査が当たり前の様に行われるようになった現在でも、それらの検査は確固たるものではない上に、あくまで器質的異常を推定する指標に他ならない。子の性格、才能など機能的な発達は育成環境にも大きく左右される要素だが、ある程度は遺伝子に組み込まれていると考えられる。事実、私の家系はいわゆる癌家系、糖尿病家系など身体上の健康問題とは無縁である。その代わりなのかほぼ全員が精神疾患に悩まされている。ADHD、双極性障害、自閉症スペクトラム、反社会性パーソナリティ障害。さらに奇妙な事に我が家は精神科を開業している。ミイラ取りがミイラになるとはこの事なのだろうか。ありがたいことに、我が家は経済面での苦労はなく、生まれてくる子がみな女性にも関わらず、私立の進学校並びに学習塾、さらには大学といった教育を受けさせていただいている。これほど恵まれた環境はないはずなのに、ほぼ家系全員が何かしらの精神疾患を発症していると言うことは、やはり遺伝子に逆らえないと言い聞かせられてる他ならない。突然変異など起こるか分からない期待を抱えて子供を残すくらいなら最初から遺伝子など残さなければいいのである。ギャンブルをやめる事が1番の利益であると言われる様に、無責任に子供を残さない事が子供にとって1番の幸せではないか。
最後はこの現代日本における最悪の暗示「女性は家庭に入る」がいかに世の女性を苦しめているかを論じる。男女平等が謳われて久しいが、女性が働く事が当たり前になっても出世するのは男性というのが現状である。前項にも述べたように出産は女性にしかできない事である。ましてや年齢という制限があるために多くの働き盛りの女性は出産という選択をする際に仕事を辞める、結婚などせざるを得ないのである。妊娠から出産までは身体上の自由が奪われる事になるので仕方のない事ではあるが、そのあとはどうだろうか。「育児は女性の仕事」は真であろうか。授乳であれ母乳でなくとも人工乳という手法がある上にあやす、オムツ変え、保育園の送り迎えなどに性別は一切関係なく、誰にでもできうる仕事ではなかろうか。しかし「女性が子育て」という価値観の押し付けで仕方なく女性がやっているというケースが多いのが事実である。育児休暇制度が形だけ立派に存在しても、先行するイメージのせいで実質何の役にも立ってないのである。真に男女平等が進んでいる国では男性と女性両方が育児休暇を取るべきと法律化されているし、男性が育児休暇を取らないと罰金を課される国もあるという。それにも関わらずこの国は何一つ変わっていない。くだらない風習のせいで男性が一度もキャリアを離脱する事なく、出世街道を歩めるのである。制度も同じく一人歩きして実質何も変わっていないのである。
さて、こんなことを言っていると「お前は結婚できない」と世の男性諸君女性諸君に言われそうだがそんな彼らに向けて一言。「結婚は不幸への入り口だろーがボーケ」と私は言ってやりたい。結婚は自分自身ならびにパートナーの人生を縛る他の何でもないのである。物理的、経済的、精神的、時間的、その他の全てにがんじがらめにされる最悪の束縛である。その束縛に囚われるのならば最初から自由でいる事が1番の幸せではなかろうか。何もかも自分のために自由に使える。誰にも奪われない人生を貫く事ができる。人生は一度きりである。誰にも邪魔されず奪わせない事が1番の幸せではなかろうか。その自由を奪ってくるものがたとえ常識やしきたりであろうとぶち壊して自分らしく生きるということをしてみようと思った次第である。
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