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「民藝100年」から ムーブメントのつくり方を学ぶ ゴキゲンLIFESHIFT 58

オミクロンによるコロナ再燃で見損ないそうになった「民藝100年」展を会期末ギリギリに観てきました。

[公式]柳宗悦没後60年記念展「民藝の100年」@東京国立近代美術館 (mingei100.jp) 2022年2月13日終了


上記 公式Webより

「今、なぜ「民藝」に注目が集まっているのでしょうか。

「暮らし」を豊かにデザインすることに人々の関心が向かっているからなのか。

それとも、日本にまだ残されている地方色や伝統的な手仕事に対する興味からなのか。

いずれにせよ、およそ100年も前に柳宗悦、濱田庄司、河井寬次郎が作り出した新しい美の概念が、今なお人々を触発し続けているのは驚くべきことです」


この展示会に先立って、昨年、駒場の日本民藝館(柳宗悦邸)と京都の河井寛次郎記念館にも行ってきたので、

民藝の趣旨、作品の趣味嗜好などは事前に理解したつもりで、今回の展示会に臨みました。

その視点から、今回の展示会では、柳宗悦が仲間たちと起こした民藝の「ムーブメントの歴史」がよく見えました。

当時は「運動」と言っていたようですが、文化的なブームの作り方は今も昔も変わらないのだと実感しました。

俯瞰して100年を越えて続く団体を作る方法や、「道」として継承するノウハウなどが見て取れたのは幸運でした。


民藝運動は、茶道の始祖である千利休による「侘びさびの発見」と同じく、「用の美」という、ひとつの「見立ての発見」であり、その普及のためのムーブメントでした。


写真は、そのムーブメントの概念を柳自身が木に模して読解したものです。

中央の幹が、サロン的な存在だった「日本民藝館」であり、その左右に団体である「日本民藝協会」と、作家の生活を支える物販を担った「たくみ工芸店」を置きます。広報的なメディアとしては、協会が発行する雑誌がメインのエンゲージを担っていました。

この三位一体を用いて、柳らは「用の美」を広く大正~昭和の時代に訴求しました。


「用の美」と彼らが主張した反対側には「上手もの」の「無用の美」が過去の価値観として存在しています。

彼らが興した日本民藝協会の立ち位置は、茶道を主体にした器・道具などの「骨董」に異様な高価格がついて取引されることを批判し、当時は価値を認められていなかった「下手もの」と呼ばれた地域密着の生活雑器を愛でるという運動なのです。

引用 柳宗悦没後60年記念展「民藝の100年」 | レポート | アイエム[インターネットミュージアム] (museum.or.jp)

その裏には、大正末から昭和初期にかけて「都市」に対する「郷土」という概念が成立します。

柳宗悦、濱田庄司、河井寬次郎ら民藝運動の創設メンバーは、各地の民藝を精力的に発掘・蒐集していきました。

大正から昭和初期にかけての交通網の発達も、民藝運動を後押ししています。


正直、前の世代を否定し、新しい民衆運動として始まったこの「用の美」の見立ても、批判の対象であった「茶道」や「骨董」と同じく、ひとつの文化的な価値を主張し、定着させていく運動なので、それ自体が独自の価値を生んでいきます。

そうしてその価値訴求が100年も続くと、それはそれで固定された立派な既成価値観になります。

残念なことに「民芸品」がいつの間にか「芸術品」となり、高価な取引をされるようになってしまいました。

陶芸家の河井寛次郎などはこの現象に早くから気づいて、途中で自身の「銘」を作品にいれないという行動で、無名性を主張したようですが、芸術品である限り、彼の作品の価値は時代を経るほど上がっていき、ついには庶民には手の届かないものになりました。


100年を経た我々の時代となれば、すでに「民藝」はある固定された「芸術品」群であり、「生活の用」には使えない、博物館のガラスケースの向こうの「骨董品」になっています。これほど皮肉な話はないと思います。


純粋に現代における「用の美」を標榜する自分は、その事実の前に悲しくなりました。

生活のための雑器に美を見出すという「用の美」のコンセプトは完全に民藝ムーブメントから消失してしまっていたのです。

そこには、懐古的で、ローカル色を感じさせるフォークロア作品群の価値評価しか残っていません。すべて過去のものであり、現代的な推進力を失っていると言わざるを得ないと感じました。

実は、この感想を、駒場の「日本民藝館」で議論として吹っ掛けたのですが、100年後の日本民藝協会のメンバーの方々は、自分たちが保存すべき価値を守ることで精いっぱいで、同時代の「用の美」には関心がないようでした。それは、とても残念です。


この問題は、今回の展示場である国立近代美術館と日本民藝協会の因縁にも波及します。

同引用

「実は、東京国立近代美術館は1958年に柳から痛烈な批判を受けています。

「国立」「近代」「美術」を反転させた「在野」「非近代」「工芸」が民藝館であり、

「現代の眼」を標榜する東京国立近代美術館に対し、民藝館は「日本の眼」に立つ、という論調でした」


皮肉なことに、2022年には、日本民藝館自身が「国を代表する」「近代の」「美術」となってしまっていたのです。

だからこそ、その歴史的な価値を認められ当の国立近代美術館で「民藝の100年」展が開催されたという歴史の面白さがあります。


この「失われた用の美の標榜」という視点こそが、今回の「民藝の100年」展を、個々の民藝作品の価値ではなく、運動のムーブメント自体として再評価するように仕向けました。

そして、私自身に21世紀における「在野」「非近代」「工芸」を愛でる新たなムーブメントを起こす決意をすべく導いているのだと思います。


21世紀における「在野」「非近代」「工芸」を愛でる新たなムーブメントの立場として、今回の「民藝100年」展での柳宗悦らの活動から学べたことは以下のものでした。


<運動の揺りかご的なサロンの必要性>

「民藝」という言葉が生まれたのは1925年12月末のこと。民藝運動の種は、当初、柳が住み、志賀直哉や武者小路実篤が移住し、バーナード・リーチが窯を築いた我孫子で育まれます。柳の安孫子の自宅がまずはサロン的な活動拠点になっていきます。


<代表的な作品群の蒐集・分類>

初期メンバーが各地の民藝を精力的に発掘・蒐集していきました。当時は器中心だったが、収集分類はその後、布、和紙、民窯、竹細工、染織など25種類に広がり、沖縄や北海道、朝鮮半島まで範囲も広がり、《日本民藝地図(現在之日本民藝)》では、500件を超える産地が登録されました。


<グローバルな価値訴求>

民藝には、運動の当初からバーナード・リーチという西洋の眼がありました。スリップウェアの導入など最新のインダストリアル・デザインへの傾斜もありました。


<制作集団の組織化>

柳は中世のギルドに倣って、新しい民藝のための制作者集団の組織を提案し、若い作り手によって「上加茂民藝協團」が結成されました。


<団体の設立>

熱い設立趣旨による共鳴で、同志に声掛けをして、その趣旨に基づく団体を設立していくのは、現代的にいえば社会企業、またはNPO団体のコミットメント活動と同じだと思いました。いまならクラウドファンディングなどの手法も活用できますね。


<メディアの獲得と効果的活用>

柳自身が編集者として「月刊民藝」を出版。1931年には雑誌『工藝』を創刊。布表装にしたり、用紙に和紙を使ったりと、雑誌そのものが「工藝的な作品」であるべきという発想のもと、毎号工夫を凝らしています。


<しなやかな変容>

この100年は二つの戦争を挟んだ激動期でした。民藝運動はかなりしたたかに、そして時代の波にしなやかに変化しています。

大陸への進出と同時期1922年にソウルで行われた「李朝陶磁器展覧会」での連動。

「古作」の民藝品の蒐集からはじめ、「現行品」の調査へ対象を広げる。

戦時中は、体制側と手を結ぶ局面も少なくありませんでした。厳しい戦時統制の中でも存続しています。

戦後の民藝はさらなる展開をみせ、民藝からインダストリアル・デザインへの流れが確立。

経済成長のなか、民藝はブームといえる地位を築きました。また縄文土器ブームに合わせに、縄文土器の「プリミティブ」な要素も貪欲に取り込んでいきました。


これらの学びから、21世紀の「運動」として、「生活で使ううつわ」を主体に、「在野」「工芸」を愛でる価値観を、「デジタル」と「多様性」、「グローバル」の活用でバージョンアップする方法を考えたいと思います。

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