遺るもの


2045年あたりにはニンゲンの脳をコンピュータにアップロードすることが可能になるらしい
いつかネットの記事で読んだ。
もしそうなれば、精神のみでいえば、不死がやってくることになる
あと25年でそんなことが実現するなんて!科学の進歩は素晴らしい。
そして、さらにいえば、私はその世界が実現する前にこの世から去りたい
だからnoteを始めた
少し長くなってしまうが、今回は私の人生を振り返ろうと思う


精神転送の実現(仮)まであと25年ということは、私の今までの人生とだいたい同じくらいの期間である
私が生まれたのはまだ20世紀
一人っ子の私は両親にとても大切にされ
さらに、私は双方の祖父母から見て初孫だったのでそれはそれは愛されて育った
森羅万象に大きな恐怖心を抱く子どもだったために多大な迷惑をかけた
それでも私を見捨てなかった家族には感謝しかない


その時は突然やってきた。

両親の仕事の都合で親戚の家にいるようになった私。
その家庭で、様々な体験をした。
「躾」の一環として
見下され、蹴られ、殴られ、
食事をするのに苦手なもののみを提供され、
箸や食器を使わせてもらえない日も存在した。
私は犬のように食事をとった。

屈辱に近い感情が湧いた。
悲しく、苦しく、反抗する力もない中、
ほんの一瞬だけ、仕返しをしたくなった。

私の一瞬込み上げたこの気持ちは、道徳に違反するのだろうか。
他人が、自分が、心底恐ろしくなった。
そして、同じ環境で大切にされている親戚の子が心底羨ましく、少しでも近づこうと努力した。

自分を捨てろ。

そうやって生きた私は、7歳のときに爆発した

パニック障害と診断された
突如訪れるこの世の終わりのような不安と動悸と貧血の連続に、私は白旗をあげた

もう何が正しいか分からない
人と関わりたくない
積み上げた全てのものと決別し、音楽と文学のみに心を寄せる日々を送った

そんな生活が6年目に突入しようとした頃、
祖父に「あなたはもっと自分を大切にして、出してあげていいのよ。それが『個』なんだから。」と言われてハッとした
私は我慢をしているのか
でも、自分ってなんだったっけ?

忘れてしまった
必死に自分を探し続けた
一度自分を捨ててしまったからか、拾い集めた自分はかつての自分とは全く違うものになった(本質的な部分は同じなのかもしれないが、表面に出てきている部分が全然違うのだ。私もこれには驚いた)
初めは自分でも自分に戸惑い続けた
この自分を手に入れて、たくさんぶつかった

でも今度は捨てないようにね。


自分を獲得して7年ほど経った頃、やっと角が取れてちょうど良い自分が出来上がった
この自分は、咄嗟の小ウソをつくこともあれば事実をはぐらかしてアハハと笑うことも多々ある
しかし、不思議と苦しくない
良いものだ
新しい自分、良いではないか

シンギュラリティについて知ったのは、新しい自分も悪くないなと思い始めたのとちょうど同じときだ
科学というのは凄いもので、ヒトがこんなのできたら面白いなと思ったらそれが実現してしまうらしい。

2045年には精神転送が可能に?
そしたら、私のこの「自分」は不滅?
まっぴら御免だ!
ヒトは変容しつつ生きて死んでいくからヒトなのに。
私の中のヒトの概念が揺らいでしまうではないか!
プチパニックである

でも、心の弱い私はそれが叶うのであればきっと永遠に縋るだろう
自分の心だけじゃない。愛する人たちに、精神だけでも永遠に残してほしいと泣きながら頼むと思う
手にとるようにわかる
誰だって滅びるのは恐ろしいもの

考えに考え、精神転送が可能になる前に土に還ろうと決意した
私が死んだ時、友人は私についてのたくさんの思い出を大切にし続けてくれるだろう
しかし、それ以外の人は?
さらに言えば、この世には?
「私」の痕跡は、ほんの少しでも遺りますか?
恐らく、余程奇妙な終わり方をしない限り残らない

だから、noteを使ってインターネットの海を漂うことにした
漂い続けて、いつか遠い誰かに届くように。
そして面白いと思った数名をフォローさせて頂いた
正直な私が、ほんの少しでも遺るように。

自己満足です
そんなもんだね

ここでは、素っ裸の私の心を書き留めていきます
ちょっとずつ、更新しますね

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