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『ヒロインズ』(ケイト・ザンブレノ著 西山敦子訳)女が自らを救う方法

精神病院で死んだ、モダニストの狂った妻たち。閉じ込められ、保護されて。忘れられ、消し去られ、書き換えられて。ヴィヴィアン・エリオットは自分の分身を書いた。名前はシビュラ。彼女の夫の詩『荒地』は、甕のなかに閉じ込められた彼女の声で始まる。それから、ゼルダ・フィッツジェラルド。夫の名声の陰で、色あせてしまった人気者。ノースカロライナ州アッシュビルで、精神病院の火事で死んだ。

「ヒロイン」という言葉には、甘美な響きがある。華やかで可憐な女が脳裏に浮かぶ。そう、まさにゼルダ・フィッツジェラルドのような。

しかし、ヒロインとはヒーローがいてはじめて成立するものなのだろうか? ヒーロー抜きのヒロインとはあり得ないのだろうか? 
辞書で「ヒロイン」を検索すると、当然のように「女主人公」と出てくる。男の主人公の存在が前提となっているのだろうか?

『ヒロインズ』とは?

この『ヒロインズ』の作者ケイト・ザンブレノは、研究者である夫の転勤にともない、知り合いのまったくいない町に引っ越してきて、孤独な日々を送る。

仕事を見つけようとしても、よそ者の自分を雇ってくれるところなんてなかなか見つからない。原稿書きに集中しようとしても、知らない町にひとりでいることに耐えがたいものを感じる。こんなはずじゃなかったのに。

いつのまに、自分は何者でもない、ただの「妻」になってしまったのか?

精神のバランスを失いつつある「私」はカウンセリングに通い、同じようにこんなはずじゃなかったとくり返す「妻」を描いた物語――『ボヴァリー夫人』を読みふけり、そして実際に存在した「妻」たち――T・S・エリオットの妻のヴィヴィアン、スコット・フィッツジェラルドの妻のゼルダに、まるで憑依されたかのようにのめりこんでいく。

ときどき、私は敵と暮らしているように感じる。
ときどき、私は敵と暮らしていると確信する。

夫に抑圧される妻を描いた文学について、女子学生たちに講義する私。それと同じ人生をひそかに送っている私。

『ヒロインズ』の仲間たち

ヴィヴィアンやゼルダが綴った文章、発したことば、ふるまい…………彼女たちの存在すべてが夫の芸術の材料となり、徹底的に吸いつくされた。

彼女たちの才能や知性はすべて無きものと見なされ、ただその美しさや奔放さによって 、〝ファムファタル〟 というレッテルをつけられ、男にとって都合のいい檻に入れられる。

夫の作品のインスピレーションの源泉――いわゆる〝ミューズ〟――になったとむやみに称揚されたかと思えば、たちまち手のひらを返され、夫を破壊し、名声を損ねた悪女として攻撃される。
ついに男の手に負えなくなれば、「狂気」に陥ったとして精神病院に幽閉される。日本でいうと、高村光太郎の妻であった高村智恵子が似たような例だろうか。

彼女たちには夫ほどの圧倒的な才能がなかったから仕方ない。
そう思う人もいるかもしれない。けれども、まぎれもなく輝ける才能を持った女たちも苦しんでいた。

子育てに加え、夫テッド・ヒューズの秘書やタイプ打ちも務めたシルヴィア・プラス。
『ジェイン・エア』の屋根裏の狂女に言葉を与えたジーン・リース。
ヴィヴィアン・エリオットに嫌悪感を示したヴァージニア・ウルフも、あり余るほどの知性と才能を持ちながら苦しんだ女のひとりだった。

メアリーの場合――『メアリーの総て』より

先日見た映画、『メアリーの総て』も同じだった。
アナーキストの父とフェミニストの母のもとに生まれたメアリーは、父を慕う若い詩人シェリーと恋におちる。
 
しかし、シェリーには妻と子がいた。
メアリーは義理の妹とともに家を出て、シェリーのもとに身を寄せる。「自由恋愛」を志向して一緒になったふたりは、ただひたすら愛に身を任そうとした。ところが、現実はそう甘くはなかった……

苦悩と失意の日々を送るメアリーが、自らの絶望を怪物に重ね合わせて『フランケンシュタイン』を書きあげる。だが、出版社は若い女性の作者にふさわしくない物語だと難色を示す。
結局、作者の名前は匿名にされ、シェリーの序文つきという条件で、なんとか出版が可能になる。

この映画で描かれたメアリーとシェリーの関係、『フランケンシュタイン』の制作過程が史実に基づいているのかどうかはよくわからない。(史実とちがうという評も目にした)

もしかしたら、当時実在したメアリーはシェリーへの愛に疑問を持つことはなかったのかもしれない。でも、ふたりの関係をいま物語にするならば、こういう描き方になってしまうのではないだろうか。

ケイト・ザンブレノの叫び

『ヒロインズ』に戻ると、先に述べたように、ヴィヴィアン、ゼルダ、ジーン・リース……とさまざまな女の苦しみが描かれているが、一番胸に迫るのは、作者ケイト・ザンブレノの叫びだ。

私はひそかに決めていた。いつか、自分と同じようにめちゃくちゃになってしまった女の子のための『インフィニット・ジェスト』を書こう。

けれど、めちゃくちゃな女の子について書いていい、と実際に言ってくれる人は誰もいなかった。……それは小説の題材として使えると教えられてきたような経験ではなかった。壊れてしまうこと。恋に溺れること。あまりにパーソナルで、ひどくエモーショナルで、まさに「女のたわごと」だから。

「女のたわごと」を攻撃するのは男だけではない。

ヴァージニア・ウルフがヴィヴィアンを嫌ったように、メアリー・マッカーシーもフェミニズムを批判した。ボーヴォワールは『審判』や『ユリシーズ』は女には書けないと言った。アンジェラ・カーターはジーン・リースの描くヒロインに反発した。

ケイト・ザンブレノは、一部のフェミニストが「力や権利を勝ち取った女性像を書かねばいけない」という意識を持っているようだと記し、自分が化粧やファッションを好きだと言えるようになるまで何年もかかったと告白している。

どうして一部の女たちは「愚かな女」や弱い女に反発するのだろうか?
どうして女たちは互いを分断するのだろうか?

ケイト・ザンブレノも示唆しているように、抑圧された結果として、女同士の分断が発生するのだろう。
心のなかに刻まれた傷によって、女は女を攻撃するのだ。
攻撃対象は「愚かな女」だったり、「男並みになろうとする女」だったり、あるいは自罰にむかったりする。

「抑圧と闘うこと」「自分を抑えないこと」「自分自身に確信を持つこと」
――これが自分を救う方法なのだとつくづく教えられた一冊だった。

(2022/11/10 2018/12/31のはてなブログより転載)


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