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戦時中に生まれた祖父の話

先日、祖父がもうすぐ死んでしまうかもしれないから帰ってこいと母からの連絡を受け、帰省した。こんな時分ではあるが、人生は刻一刻と進んでいる。コロナ禍だろうがひとは生まれ、老い、死ぬ。もちろん誕生日も来る。時間は待ってはくれない。もうすぐ、祖父は79回目の誕生日を迎える。

祖父は城下町の出身で、4人兄弟、先祖は商人。城に絵蝋燭を納めていたらしい。母が昔、いまでいえば、殿様専属電力供給会社みたいなもんだよと教えてくれた。しかし、祖父の祖父(おそらく幕末~20世紀初頭)あたりでパーっと散財し、それ以降は地味な暮らしだったらしい。それでもなお土地を持ち、祖父は終戦後、家賃を回収しに兄弟たちと近所を回っていたらしい。終戦直後のことは知らないが、なにかを"回収する側"は、いつの時代も強者だ。わたし自身、祖父方の法事に連れられて行くときは、その墓地一帯でもひときわ大きなお墓だったことを覚えている。

そんな祖父は、地方銀行に勤めていた。定年後も監査役として、ときどき出張に出ていたことを覚えている。お正月には何百枚もの年賀状を出し、当時はよくわかっていなかったが、"お歳暮"というものも多く届いていた。わたしはその中でも缶入りクッキーが大好きで、母はほぼ原液の、濃いめのカルピスを作って飲むのを好んでいた。祖父が銀行員になった理由は、家の財産が抵当として銀行に持っていかれたかららしい。"回収される側"に回ったことが悔しかったのだろうと、勝手ながら想像する。銀行の先にその"回収者"はいるのだが、子ども時代の祖父にはそれがわからなかったのかもしれない。それがきっかけで、祖父と祖父の兄は銀行員になると誓い合い、どちらも定年まで勤めあげたようだ。

わたしにとって祖父は、とてもよいおじいちゃんであった。多くは喋らないが、頭の回転は速い。言葉数少なく意志疎通ができ、ボードゲームやトランプも強かった。わたしは同級生相手にはったりで勝ったりしていたが、祖父にはそれが通じない。半世紀以上も長く生きているのだから当然かもしれない。一方で祖母は、とても頭が弱い。愛嬌はあるが理解力が弱く、1から10まで説明しても、0.5程度しか伝わらない。物事の曲解もひどい。創造力が乏しく、自分の見回りのことしかわからない。"自分で考える"ということがまるでできない、彼女の時代の典型的な"女"だった。

そんな祖父母も、気づけば70を超え、祖父は80を目前としている。介護施設から帰って来る祖父を、母とわたしと祖母が待っていた。介護スタッフが、車いすに乗った祖父を部屋に運び入れた。わたしはそれを、居間から窓越しに見ていた。ひさしぶりに再会した祖父は、介護ベッドに横たわり、薬や消毒の、病院のにおいがした。むりやり延命している感じがした。自然ではない。これをなんと説明すればいいのかわからないが、死が近づいている人間のにおいだ。彼はいまや、膀胱の機能が停止し、人工的なそれをつけている。筋肉は衰え、ひとりで着替えることも、歩くこともできない。まだ声は出せるが、発音はおぼつかなく、推測しないとなにを伝えたいのかわからない。そんな推測ゲームでは、祖母はもちろん的はずれな回答を連発する。それが祖父にとって、またジレンマなのだろうと感じた。

祖母は介護施設のスタッフと話し込み、とんちんかんな返答をしていた。母とわたしはそれに顔を見合わせて苦笑いする。母は仕事がある。わたしは都会に出て結婚し、田舎のこの家に帰ることはない。一時的に滞在している者が、このいつまで続くかわからない介護に手助けをするべきではないと思った。手は出さない代わりに、いくつか提案をした。あらかじめ用件(水、暑い、寒い、眠い、着替えたい、など)を書いたボードを祖父の手もとに置いておくこと。祖母が祖父のそばを離れていても呼べるよう、呼び鈴を置いておくこと。どこかで見たことがあるような案だが、わたしに出来ることはこれしかない。

祖父は、いまの彼の姿を孫にあまり見られたくないようだった。もともと祖父は口数が少ない。本当に少ない。祖父とは、その仕草、目線、間の取り方、それらで会話をしてきた。わたしの手土産のクッキーを祖母が食べさせ、わたしは、じょうろのようなもので祖父にスポーツドリンクを飲ませた。「ひいばあちゃんのときみたいだね」と、わたしは祖母に言った。祖母は、5年ほど前まで自身の母のお見舞いに足繁く通っていた。しかしその言葉は、祖父には腹立たしかったようだ。

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