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かじゅまるの樹とパンケーキ

Coccoの歌に、かじゅまるの樹という歌がある。お菓子作りが好きな母親が出てくる。恐らく主人公の女の子は、しつけとしてかじゃまるの樹に縛り付けられていたのだろうか?

幼馴染みの女の子に、似たような家庭環境の子がいた。名前は、るり(仮名)。るりの祖母は、るりの家に遊びにいくと簡単な手料理を作ってくれた。そしてるりは、「こんなもの要らない!」と叫ぶのだ。正直、わたしはその料理に手をつけたことがない。

そしてるりの祖父は、るりを時々庭の樹に縛りつけていたようだ。塾に行かせて、家庭教師をつけて、なんでmonicaちゃんみたいに点数が取れないんだ?と。わたしは中学生ながら、そんな方法では無理だと思った。でも人様の家の方針に口を出すわけにはいかない。るりに言っても反感を買うだろうし、ましてるりの祖父に、お孫さんを放っておいてあげてくださいなんて、とても言えなかった。

一方、わたしの祖母は、パンケーキが大好きだった。というよりも、孫のためにパンケーキを焼くのが好きだったのかもしれない。祖母はそれをホットケーキと呼ぶ。家にふたりきりのお昼にはときどき、ホットプレートでホットケーキを焼くのだ。わたしは、ぺちゃんこになったホットケーキしか知らなかった。祖母は必ず、膨らみかけたホットケースを、フライ返しでぺちゃんこに潰すのだ。

あるとき、たまたま居合わせた母が言った。

「ホットケーキは焼いてる間、触っちゃだめだよ」

けれども祖母は、娘の言うことを聞かない。その日もわたしは、ぺちゃんこのホットケーキを食べた。母は食べなかった。わたしは昔、母が甘いものを食べているところを見たことがなかった。起きてから眠るまでいつもブラックのアイスコーヒーを飲み、セブンスターを吸っている。コーヒーは水で、たばこは空気なのだそうだ。

そんなある日、母がホットケーキを焼いた。急に食べたくなったんだという。わたしはその日、初めてふわふわに膨らんだホットケーキを食べた。あれが最初で最後の母のホットケーキだった。

母は一度も、わたしに勉強しなさいといったことがない。100点のテストを見せても、ああ、そう、すごいわね。といった感じだった。無反応というよりも、日常の一部という感じだった。娘が呼吸をして喜ぶ親は、その子を産みたての親ぐらいではないだろうか。娘の100点もまた、母にとっては呼吸と同じであった。

小学校に上がる前から、わたしにとって勉強は暇潰しであった。だから、るりの家のように強制される気持ちがわからない。わたしは、母が起きるまでの間、日本語字幕で音声は英語のディズニー映画を、最低限の音量で観るのだ。英語に抵抗がなくなったのはそのときかもしれない。音声を日本語にする方法が、幼いわたしにはわからなかった。それを観終えたら、通信教育の問題を解く。毎日見開き1ページとして設定されていたが、暇だからできるだけ解く。近所の家の男の子が、monicaちゃんあそぼー!って来るまで解く。母が起きてくるまで解く。わたしにとってはそれが日常であった。

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