栗が最高に美味しいのは5月
末っ子の通う保育園は、毎日違うルートで山を歩いて遊ぶのが日課だ。日によって、場所によって、天候や季節による環境の変化によって、遊び方も違えば、動きの大きさも違う。仲間との関わり方まで変わる。
そんな中、我が家の末っ子は、拾った栗を生で食べるのが大好きだ。毎日の山の散歩で覚えた。この日も、ずっと下を向いてひたすら古いイガを両方の靴で踏みつけて開いては、虫喰いのないのを探していた。この時期にもなると、なかなか見つからない。
小さな山栗をひとつ見つけると、大事そうに歯で割ってかじっている。
栗は10月頃、実が生って食べられる。12月の栗は、その頃よりもだいぶ甘味が乗っている。
落ちたばかりの秋の栗は虫喰いが少ない。落ちて日が経つにつれ、虫喰いの栗がほとんどになる。ところが、この栗。落ちて日が経てば経つほど、甘くなるのだ。
保育園の先生が、「5月の連休過ぎの栗が最高の味なんですよ。」と教えてくれた。
秋に実が落ちて冬越ししたあとの栗なんて、虫にも動物にも喰われずに残っているのは相当レアだ。そんな時期に栗を探して食べようと思ったこともなかったから全然知らなかった。先入観のない子どもならではの発見だなあと思って、感心した。
一見何もない、「ただの森」に放たれることで生まれる豊かさ。発見の味。毎日繰り返し山に入り、その時々の変化を一々感じ取ることで五感で気づくことは計り知れないだろう。
なんて安心感があって、なんて幸せなんだろう。
現代生活を送っていると、情報の8割は視覚情報と言われる。ところが、人間の身体は狩猟採集時代から全く進化していないのだ。森で過ごすことによって、生まれながら備わっている五感を、本来の状態に解き放つ。
私自身は、田舎育ちなので多少の自然体験はあるものの、概ね大人になってからガッツリと、自然の楽しさや懐の深さを知った人間だ。
山の保育園の子どもたちの五感の鋭さ、感性の豊かなのを見ていると、できるだけ小さいときから、たくさん自然に溶け込んで日々を過ごしてほしいなと思う。自分の意思を超えた大きな存在としての自然が原風景にあるって想像以上に強いと思う。
人と人との繋がりだけじゃなくて、偉大な自然との繋がりを感じられているかどうか‥‥偉大な自然は自分を守ってくれている、豊かな存在だと、身体で知っていること。壁にぶち当たったときにも、自分が人間社会の一部と感じているのか、人間をひっくるめた大いなる存在の一部と体感できているのとでは、どちらが自分を守ることができるか。視界がまるで違うと思う。
それから、私自身がそうだったように、何歳になっても自然から学ぶことに決して遅すぎることはないと思う。子どもたちにも、大人たちにも、自然とつながる喜びを知ってほしいし、自然とつながることで自分を幸せにできる人がどんどん増えていけばいいなと思ってる。
そんなことがベースにあって、かまばの森の活動を日々行っている。
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