見出し画像

幸福について考えないことが一番幸福なのかもしれない

どうも、なかてつです。

以前、とあるご縁があってJTB企画のモニターツアーに同行させていただきました。行き先は福井県あわら市。可愛らしい名前ですね。

何でもこのあわら市は、2年ごとに発表される「全47都道府県幸福度ランキング」なるもので、2014年から2022年まで5回連続で総合1位を獲得しており、「暮らす人も、訪れる人も幸せを感じられる”感幸地”」として知られるまちなんだとか。

そんなまちで、「幸福度No1たる所以」を探る探究プログラムツアーにオブザーバーとして参加してきました。
あわら市の土地に触れ、暮らしに触れ、人に触れることで「幸福とは一体何なのか?」について改めて考えさせられたので備忘も兼ねて書いてみたいと思います。



<幸福な町なのに実感がない…?>

ツアーの中で、現地の方と触れ合う機会があったので、「自分たちが住むまちが幸福度No1のまちに選ばれていること」について、ぶっちゃけたところ伺ってみました。(もちろん数人の意見なので、「たまたまそういう意見だった」というところは否めませんが。)

「あわら市は10年間ずっと幸福度No1のまちとなってますが、自分たちが幸福だという実感はありますか?」という質問に対し、現地の方が口をそろえて仰っていたのは「別にそんな実感はない」とのこと。

これには驚かされる一方で、ちょっと心のどこかで「やっぱりそうだよな」とも感じていました。

そもそも「幸福」なんてものは瞬間瞬間に感じるもので、常日頃から「自分は幸福である」と感じながら生活をしてる人なんてほとんどいないのではないでしょうか。

もちろん「メタ的に見て自分が幸福か不幸かどちらだと思うか」と尋ねれば「まぁ、幸福、、かな?」みたいな回答は得られるでしょうが、幸福感を常に感じながら生きるというのは、夏祭りの500円くじでプレステを当てるのと同じくらい難しいことです。

例えば、たった今、最愛の人からプロポーズを受けた人を捕まえて、「お伺いします!今、幸福ですか?」と聞いたら「もちろん!天にも昇る気持ちです!」などと返ってくるでしょうが、

スーパーで買い物してる人に「もしもしあなた。今、幸福?」と聞いても、よっぽど特殊な事情がない限り幸福だと答える人はいないでしょう。

要は、今まさに自分の身に起きていることや自分が置かれている状況を俯瞰したときにしか「幸福だ」と感じることはないのだと思います。

なのであわら市の現地の方に「幸福だと感じてますか?」と聞いても「別に」となるか、「まぁ、幸福、、かな?」みたいになるのだと思います。

ただ、「だとしたら、あわら市が幸福度No1というのは嘘っぱちか」というと、そんなことはないと思います。少なくとも私がお話した限りでは、あわら市に対して不満を抱えている人はいませんでしたし、日々の生活に満足している様子も窺えました。有体に言うと幸福に見えました。

そもそも幸福なんてのは人の数だけその定義があるので、国が定義した「幸福なまち」というものに、個人の価値観が一致しなくたって何ら不思議はないので、もしかしたら国がいくら「あんたがたは幸福サ」と言っても、本当にあわら市の現地の方はそう感じていないという可能性はあります。

が、少なくとも私の価値観では、彼らは「幸福」に見えたので、私なりに「あわら市の幸福の秘密は何か」と考えてみました。



<幸福の秘密は『幸福について考えないこと』>

以前、元総理大臣の麻生太郎氏が「日本の若者が政治に興味がないのは悪いことじゃない。」ということを言ってました。紛争やデモがある国では政治に関心を持たざるを得ないが、平和に暮らせているんだから政治に興味を持つ必要もない。だから政治に興味がないのは別に悪いことじゃないんだ、と。

屁理屈だと思われる方もいるかもしれませんが、私はこれは割に真理だと思っていて、この理屈で考えると「幸福な人は現状に特に不満がないから、幸福について考えることもない」となり、詰まるところ「幸福について考えないことが幸福」と言えるのではないかなと。

THE 虎舞竜のロードよろしく「何でもないようなことが幸せ」であって、失って初めてそれが幸福だったと気づくけども、中にいる間はそれに気づかないのでしょう。逆に言うと「気づかない状態であり続けること = 幸福であり続けること」とも言えるわけで。この領域を目指すのは一つありなんじゃないかなと思います。



<どうすれば「幸福について考えない状態」であり続けられるか>

じゃあどうすれば幸福について考えない状態であり続けられるか?というところを考えてみたとき、それを阻害するのが「他人との比較」「考える時間」なんじゃないかなと。

やっぱり人間なんてのは、どうしたって他人と比較してしまう生き物なので、周りの色んな人の人生が見えて比較対象が多い環境だと、どうしても「周りと比べて自分は幸福じゃない」と思ってしまうでしょうし、手持無沙汰でやることがないと、つい余計なことを考えてしまって、あれこれと思い悩んでしまいます。

つまり幸福でありたかったら「他人との比較が存在しにくい状況で、常に何か目の前にやるべきことがあるようにする」というのが一つの手になるんじゃないかなと思います。

で、あわら市は”一つのまち”としてそれを実現しているように感じました。

自然に溢れた環境で、他人と自分の人生を比較するようなこともなさそうですし、何よりまちをあげて取り組んでいる地域循環社会がうまく機能しています。例えば森を維持するために木を切り、それで林業を営み、余った材木は別で燃料として使い、燃料として使用した後はそれを農作物を育てる肥料として使い、という感じのことが幅広く豊富にまちに根付いている印象でした。
決してマクロ的に見ると合理的じゃないかもしれませんが、多少非効率な部分はありながらも程よく各々に役割と仕事があり、手持無沙汰になりにくいのは見て取れました。一言で言うと「まち全体で生産と消費のバランスが程よく取れている」のです。


幸福な人生を送りたい人は、あわら市のような「生産と消費のバランスが取れた比較機会の少ないまち」で生活してみるのも選択肢の一つかもしれません。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?