○○ず嫌いをやめてみる
喰わず嫌いをやめてみる
我が家の子は、喰わず嫌いが甚だしい。
異なるもの(って何が基準なのかは判らないのだけれど)に徹底的に抵抗する。
言葉で伝えても無理なので、最近は目をつぶって一口食べさせてみる。
すると食べられるようになる(時もある)。
というのがこのところの対処法である。
ハッシュドポテトとゴーヤ 【喰わず嫌い克服編その1】
ちょっと前までは無類のフライドポテト好きなのにも関わらず、朝マックのハッシュドポテトが食べられなかった。
もちろん喰わず嫌いでだ。
ところが目を閉じる方法で食べられると確信してからは、いまや両手で掴んでモグモグってなもんである。
昨日は可能性がかなり低いと思われたゴーヤを目瞑り法で食べられるようになった。
とはいえ、以前と比べてゴーヤは食べやすくなったものだ。
私が子どもの頃食べていたのは、その名に違わずまさにニガウリであった。
その苦味こそが美味しいのに。
蘇るニッキ飴の記憶 【喰わず嫌い克服編その2】
私にも記憶がある。
まだ子どもの頃。
車でドライブ中、祖母が皆に飴を配る。
それはありがちな光景かもしれないが、飴はカンロ飴であったり純露だったり。
時折それがニッキ飴のことがあった。
私はニッキが苦手だった。
でも車内という閉鎖空間であるし、親切心で提供されたものなので、突き返すことなど出来ない。
結局、無理矢理口に放り込んだ。
そのうち食べられるようになった。
このような強制的な克服を経験していたことを思い出した。
そう、喰わず嫌いを乗り越えれば世界が広がる。
ウヰスキーが飲めないんです 【飲まず嫌い克服編】
もうだいぶ経つが、元同僚に「40になるまではウイスキーは飲まないと決めているんです」というのがいた。
当時シングルモルトに凝っていた私は、半ば強引に「騙されたと思って飲んでみな」とウイスキーを飲ませてみた。
するとどうだろう。
瞬く間にその元同僚はウイスキー好きとなり、
通販で希少なウイスキーを取り寄せたり、テイスティング用のキット?なるものを買ったり、挙げ句の果てには部屋へ遊びに行くとウイスキー樽から作られたテーブルが置かれている始末だった。
聴かず嫌いをやめてみる
正確には聴かず嫌いではないのだけれど、聴くきっかけによって世界が変わることもある。
人生を狂わせた1枚のCD
数年前、高校の同窓会で数十年?振りに会った友人に
「お前にメガデス薦められて聴いてから俺の人生は変わってしまった」
といわれた。
私自身は何気なく1枚のCDを差し出したに過ぎなかったので驚いた。
それでもその表情は愉快そうだったので、幸せな未来へのきっかけになってくれたのだと信じたい。
人生のベクトルに歪みが生じたライヴ
あるジャズバンドのライヴにただの一度でいいから行きたいと思い、どういうきっかけであったか忘れたが同僚(先のウヰスキーマニアになった方とは別人)を誘った。
その夜、私は感動のあまり開演から泪がとまらなかった。
惜しくも解散してしまい、私にとってはそれが最初で最後のライヴとなった。
しかしながら同僚はその夜から解散まで幾度もライヴへ足を運び、解散後のそれぞれの新しい活動やライヴにも通い詰めている。
その出逢い以前より同僚にとって音楽ライフが豊かなものになったと信じたいが、あの夜は、だいぶベクトルを歪めてしまったようだ。
世界はキッカケで満ちている
或る落語の独演会のチケットに余裕があったので、何気に友人を誘ったら、それがハマるキッカケになって自分自身でも観賞するようになったのだと、後日告白されることがあった。
これまでに自分自身発のキッカケを紹介したけれど…
一方で、果たして私自身は、人から人生変えられるキッカケを与えられているのかしらん?
具体的にはすぐに思い出せない。
それはきっと思い出せないほどあるからだと思う。
おそらく相対的に他の方よりもキッカケだらけで、今の私があると思う。
主体性が無いということなのか?
それより他者の興味あるものに、私が興味があるということが強いのかもしれない。
勧められた本はとりあえず手に入れて読むし、紹介されたお店は1度は訪ねてみる。
後日そのフィードバックをすると、教えてくれた方はまた更にディープな情報を提供してくれる。
これを繰り返すことによって、所謂ハマった状態になるのだが、ここからソロ活動を続けていくと、趣味からちょいとした勝手に専門家みたいになれる。
落語に出てくる横丁の御隠居は、大抵物知りで一通り遊んできているような人であったりするのだが、きっと人の薦めに乗じて様々なことに没頭してきたのであろう。
近頃の聴かず嫌い【私自身の場合】
数年前、なかなかココロ開いてくれない学生に好きな音楽を訊ねると目を輝かせて「ボカロ聴きます!」と答えた。
そんな明るい顔できるんだ!?
と驚いたとともにボカロ?と思い、ボカロという存在に壁をつくっている自分がそこにいた。
そんな聴かず嫌いで強がっていた(?)私が、いまはYOASOBIを繰り返し聴いている。
切り開くことで世界は開けるのだ、とあらためて実感している。
ハマって、それをやめるのには理由があります
私は飽きっぽい。
と思う。
新しいことにガーッとしばしのめり込んだら、一旦ペースを緩めるかお休みする。
ただしそれは嫌いになったのでもないし、「飽きた」と周りから言われることに反論はいちいちしないけれども、本当は違う。
飽きたくないから距離を置くのだ。
つまり、一種の寝かしている状態。
一通り自分のなかでその世界を掴んだら、反芻するような時間をとる。
別なことにハマっていて数ヶ月、場合によっては数年後にまた復活してみる。
そうすることで、より増幅された熱量で向き合えたり、新たに付加された角度から愉しむことが出来るようになる。
ブームは巡るのだ、自分自身のなかで。
ハマる人が周囲に現れる効果
前述のように、あるキッカケで本人も私自身も思いがけず何かにハマってしまうことがある。
例えば、或る友人が或るジャンルの音楽にハマったとしよう。
その間、私自身は紹介しておきながら、その手の音楽からは距離を置いてみている(たまたまそうなったとして)。
すると、しばらくしてからその友人の近況を訊くと、(或るジャンルの音楽についての)驚愕なる情報量に圧倒されるのだ。
その熱量をモロに受けて、また触れてみようと思うし、お陰で深く知ることが出来る。
何がいいたいかというと、自分が諸々の理由でお休みしている間、別の方が深みまで開拓して、凝縮マガジンをつくってくれているのだ。
自らで開拓する愉しさを直接体感出来なかったとしても、その間自分自身は他のチャンネルに熱中していたのだから。
凝縮マガジンは手っ取り早くイイトコ取り出来る。
誰もが等しく身体も時間も限られている。
だからよりよく沢山の経験を、沢山の感動を得るためには、周囲の人に薦めて、薦められて、を繰り返していく。
それによって、新たな世界がどんどん切り拓かれていく。
だから○○ず嫌いをやめてみることだ。
そうすれば自ずと世界が広がるのだから。
おしまい
最後までお読みいただきありがとうございます。 いただいたサポートは麦チョコ研究助成金として大切に使用させて戴きたいと思います。