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いちご
(一)
夕刻、帰宅をすると、ダイニングテーブルに2つ並んだ切子の透明が、チラチラと輝く。その上に、赤いいちご。満足気な顔をした君は、にいと笑って
「ヨシくん、いちご食べない?」
と、唐突に問いかけるのだった。僕はしゅるしゅるとネクタイを解き、ジャケットを脱いで椅子に置く。1つだけ、丸いいちごをつまみ上げて、口の中に入れる。しゃく……と、その果実の硬さが、歯を媒介して伝わってくる。口内に、酸味と甘みと、少しの野菜らしさ。
「ちょっとこれ、まだ早いんじゃない?まあ、甘くなくて良いけど」
予想に反しての青い味に、思わず、むっと顔を顰めてしまう。それに対し、まだ食していなかったのであろう君は、
「えー、今が旬!ってスーパーにはでかでかと書かれていたのに?そんなの、詐欺じゃないか」
と、大きな声で残念がって、しゅんとしている。
「リョウくんは、そういうの、引っかかるタイプなんだ」
「え?」
ぱちくりと、瞬きを2、3回。
「そんなの、スーパーが売りたいがための文句に決まってるじゃないか」
「そんなあ、でもほらもう2月だし、旬の頃合だろうに」
と、つかさず反論をする君の顔を見て、僕の口角も自然と緩む。
「でも、リョウくんと食べると、美味しいね」
「そんなお世辞、もういらないよ」
つん、と拗ねた顔。紅く尖った唇に、ちゅ、といちごが包まれて、しゃくりと噛まれ飲み込まれていく。
「たしかに、あんまり甘くない」
ぽそりと、君が呟いた。
(二)
「いちご、食べてないのか」
風呂上がり、飲み物を取りに冷蔵庫を開けると、ラップのかかったいちごが残されていた。
「だって、微妙だったし」
と、君はソファーでつまらなそうに、テレビを見ているのか、見ていないのか分からない心地で返答した。
「明日、また買ってきて」
「え?」
「ジャムにしてしまえば、みんな同じだよ。それに……、ジャムを作るなら、少し硬い方が、多分美味しいから」
ソファーに座り、煙草に火をつける。けほけほと隣でわざとらしく咳き込む君に、軽く口付けをする。
「にが、」
「ごめんって」
「ヨシくんの、その、勝ったみたいな顔、好きじゃない」
「どんな?」
「そう、今の顔」
むにっと頬をつままれる。眉間にシワを寄せた君は、さっき口にしたいちごよりも紅い唇を、上手に動かして、また、憎まれ口。
「ヨシくんはたしかに、俺よりもかっこいいし、大人だから、なんでも分かってるのかもしれないけれど、」
「何?」
「けれど、けれどさ。いや、やっぱいい。なんでもない。ほら、またキスしてよ」
「仲直りの?」
「そういうところ、好きじゃない」
にっと、笑った君の頬に口付けをして、
「好きなくせに」
と、期待はずれのキス。驚く君の顔を見て、僕は、クスクス笑った。煙草の煙がゆらゆらと昇っていく。二人暮しには決して広くない8畳間に、無理やり置かれたソファー。2人並んで座って、特に意味もなく、ぼうっと、何を待つわけでもなく過ごしている。僕はこの時間が好きであった。
「明日さ、パンケーキが食べたいな。いちごの味の」
「お昼?」
「お昼でも、おやつでも、夕飯でも」
「夕飯にパンケーキって、ヨシくん、OLかよ」
コップに注がれたお茶を飲みがら、彼はぼそりとそう言う。少し嘲笑的な言い方ではあるが、今どきの若者らしく、少しひねているところも、嫌いではない。彼のユーモアのひとつである。
「リョウくんのその偏見、卒業までに直した方が、君のためだよ」
「君のためって、俺はヨシくんのお嫁さんになるからいいんだよ」
「それはいけないね」
「どうして?」
「実に消極的な関係性で、あまりにも君のためにならない。僕は、ダメ人間製造機にはなりたくない」
「家事とかしてるよ」
「まあ、そうなんだけどさ、僕しか繋がってる世界がないってのは、どうなの?」
「うーん、ヨシくんだけで、十分事足りてるんだよなあ。セックスも上手だし」
「そういう問題なの?」
「かなり大きな問題だよ?」
吸いかけの煙草をひょいとつまんで、吸ってみせる。
「おえ、よくこんなのスパスパ吸ってられるね?」
「こどもの君にはわかりませんよ」
「こんなのを美味しいって思っちゃったら、それこそ人間の終わりだよ、舌が死んでる、舌死だ」
「ぜつし?」
「今、勝手につくった」
はは、と笑って、口直しみたいにお茶をくっとまた飲んで、
「こどもとちゅーするなんて、ヨシくんはだいぶ変態さんだね」
と、いやらしく笑って、潤んだ唇を俺に押し付けた。
「悪いか?」
「全然?」
「明日も早いから、ほら、寝かせてくれ」
「どうせ俺は毎日暇ですよ〜だ」
しっし、と手で払ってソファーにごろりと横になる。
「ちょっと、俺もそこで寝るんだから」
「ニートは床で寝て反省しなさい」
「ヨシくんのケチ」
ぐりぐりと寝ているところに押し入ると、満足気に笑って
「おやすみ、ヨシくん」
と、当たり前のように眠りにつくのであった。
「ったく、電気ぐらい消してくれよ…」
とぼとぼと歩いて電気を消す。薄明かりの中、そっと瞼に口付けをする。
「リョウくんも、良き夢を」
(三)
「パンケーキ食べたいって、今日も仕事じゃん」
ドタバタと支度をする俺に対し、酷くご立腹である。怒っている証拠に、朝の珈琲も、パンも何も、全く用意される気配がないのだ。
「だから、夕飯でも良いって」
「だから、OLかよって」
「悪いか?」
「悪い!」
スマートフォンをつまらなそうに弄りながら、寡黙に怒っている。無駄に足を組み替えて、気にしてほしそうな仕草が何ともいじらしい。
「楽しみだったのにな、2人でパンケーキ焼くの」
「わがまま言わないでよ」
「どーせ、わがままニート寄生虫ですよ、俺は」
「またそうやっていじけて。明日は休みだから、な?明日、一緒に作ろう?」
「ほんと?」
「ほんと、ほら、もう行くから」
スタンプするみたいな、酷く軽い、行ってきますのキス。
「あ、だからいちご、新しいの追加してよ」
「ジャムから作るのめんどくさいんだけど」
「暇でしょ?」
「んー、何も言えない」
「じゃ、よろしくね」
「あ、ちょっと」と君が何かを言っていたが、虚しく閉まった扉によって、その声は届かなかった。
その声を聞けなかったからか、なんだか酷くもやもやする。
「雨だ」
傘を忘れたからか、と近くのコンビニでビニール傘を買う。無駄な出費は痛いが、仕方ない。ついでに今朝飲めなかった珈琲も購入したが、飛び乗った電車はぎゅうぎゅうで、とても珈琲を飲む余裕なんてなかった。電車内は無駄な暖房と、サラリーマンたちの湿った背広の臭い、体臭でむわりと最悪の心地であった。ああ、今日も一日が始まる。
(四)
「ったく、ジャム作ってって、簡単に言うけどさ。まあ難しくはないけどさ、ヨシくんのばか」
いつもはしっかり掃除をするタイプであるが、今日の気分は最悪だ。意地悪みたいに、ヨシくんの本棚の本の並びを変えたり、掃いたホコリを本棚の隅に寄せて放置したりした。まあ、彼は全くそういうことを気にしないので、全くもって無駄な行動ではあるが。完全な自己満足で、憂さ晴らしをした俺は、どかりとソファーに座って、そのまま横になった。
「ヨシくんの、匂いがする」
すん、と、つい数時間前まで彼が寝ていた場所を嗅いで、少し、センチメンタルな気分になる。
「いちご、買ってこなきゃ……」
むくりと起き上がって、買い物に出かけようと窓を見ると、雨がもう降っている。さっき「今日は雨予報だよ、傘持った?」と言えなかったことを思い出して少し寂しい。
「あんな、すたすた行っちゃうなんて、酷いやつめ」
ヨシくんが傘を持っていくのを忘れた雨の日が、同棲を初めてから30以上であることを、大量に溜め込まれたビニール傘が示している。まだ、1年も経っていないのに、こんなにビニール傘を溜め込んで。
「また1本、新しいやつが来るのかな」
1本拝借して、ドアを開けると、寒さが身に染みる。ふるりと震えて、肩を竦める。今日は、駅前のスーパーがたまごを安売りしてたな、でも、いちごはあっちのスーパーかな、でも、昨日食べて美味しくなかったしな、と無い頭でぐるぐると考える。
「まあ、両方行けばいっか」
しとしとと雨が降っている。そこまで強くない雨なのに、風が吹く度に肌に触る水滴が酷く冷たい。この寒さはあんまりだと、そそくさと小走りをして、スーパーに入る。野菜コーナーのショーケースの寒ささえも感じない。むしろ暖かささえも感じられるじゃないか。やはり、外の寒さが異常なものであったんだ、と再認識。
「お、ここもいちご安いじゃん。こっちでいっか」
"超特価!"とでかでかと書かれたポップの横にいちごが沢山、山積みになって置いてある。1番赤くて大きいやつを1パック手にする。
コロコロとカートを連れ回して、ぽこすこと夕飯の材料もカゴに突っ込んだ。あ、あれも買っておこう、これも買っておこう、と、つい買いすぎてしまい、毎回、帰り道に苦労する。今日に至っては、傘があることも忘れて、大きな袋に2つ分、ぎっしり詰まった食材を持って、2人の家に帰るのだ。男の2人暮らしなんて、こんな量あっという間になくなってしまうんだから面白い。
(五)
昨日の残った出来損ないのいちごと、今日買ってきたいちごをよく水で洗ってヘタを取る。ヨシくんは、ヘタの尖った所があまり好きではないので、綺麗に包丁でこそげとった。まあ、ジャムになるから関係ないんだけど。下処理が完了したいちごを鍋に移して、砂糖をまぶして少し放置する。この間に今日のお昼ご飯だ。自分だけであると、どうも手を抜いてしまう。料理は好きだが、それは相手がいるからであって、あと、暇なのもあって、自分1人のためにならこれくらいで十分だ。
「いただきます」
解凍ご飯に、さっき買ってきた卵をかけて、柚子胡椒を少しと、胡麻と、ねぎ、醤油。お湯を沸かして即席の味噌汁も付ければ昼食の完成である。
「ん、おいし」
及第点の食事。あまりにもいつも通りで代わり映えがないからって、調味料を増やしたけれど、味が増えただけで、結局卵かけご飯は卵かけご飯。その域を出ないのだ。
「ヨシくん、早く帰ってこないかな」
つい、独り言が出てしまう。1人で食べるご飯はやっぱり味気ないなと思いながら、ぽそぽそと米を口に運ぶ。そろそろ、いちごが仕上がっただろうか。
食事もそこそこに、いちごを確認すると、いい感じに水分が出てきている。
「いい感じ」
弱めの中火でじっくりと加熱する。ほこほことしてきたら、火をさらに弱めて、また煮込む。いちごが白っぽくなったら砂糖を追加して、また煮込む。
火の音とコトコトと鳴くいちごの音に、少しの眠気が襲ってくる。昨日、セックスしなかったなとかどうでもいいことを考えて、眠気をそらしてみる。しかし、眠いものは眠くて、うとうとと、つい、船を漕いでしまう。
「あ、いけない」
容器の煮沸を忘れていた。先程味噌汁を飲んだ時に使ったお湯を再加熱して、瓶を煮沸する。横目に確認すると、もういちごも最終段階だ。
全体がつやつやとしてきた頃に、レモン汁を少し入れて、泡を取り除いて手早く瓶に詰める。
「できた」
キラキラと光る赤い色に心が踊る。明日が楽しみでしかたがない。ヨシくんは、あまり料理が得意では無い。いつもはしっかりしてて、かっこよくて大人な彼のかっこ悪い姿が俺は見たかったのだ。彼の、そういう、人間らしさが大好きだから。
(六)
「あっ、大変だよ!ヨシくん」
冷蔵庫を開けた君は、絶対した。朝にはとても似つかわしくない声量で、その危機を僕に示した。
「っ、どうかしたのか?」
「パンケーキ!パンケーキ作るのに、牛乳、足りないや」
そう言いながら、ほぼ空の牛乳パックを左右に振る。
「水でも出来るって、ほら、パッケージに書いてある」
「牛乳じゃなきゃ嫌なの!」
「じゃあ、一緒に買いに行く?」
多分君は、こう言われたかったのだろう。その予想は大当たりをして、目を爛々と輝かせた君は、
「行く!」
と、大喜びである。
「にしても、牛乳以外にも、そんなに買うものあるのか?」
いつものだらしなく、覇気に欠ける君とは異なって、スーパーの中ではとてもキビキビと動いている。ぽんぽんと、ほかの食材も入れていくから、思わず呆気に取られてしまう。
「ぜーーんぶ、ヨシくんと俺の、お腹の中に入っちゃうんだから凄いよね」
「もしかして、食いすぎ?」
「うん、多分、食べ過ぎてる」
「リョウくんのご飯が美味しいからね」
「ふふ、褒めてくれてありがとう。今日のヨシくん、好き」
「僕も好きだよ」
ふたりで仲良くカートを押す。酒瓶を入れようとして、量が多すぎると止められたり、つまみに良いと、生ハムこっそりと入れて「なにこれ!」と会計時に怒られたり、久々の一緒の休日は、いつもの数倍はキラキラと輝いた、あまりにも普通で眩しい日常であった。
「もしかして、俺がいるからこんなに買った?」
「ばれた?」
ふふふ、といたずらっぽく笑う。日に照らされてどこかに飛んでいってしまいそうなその姿が、なんだか寂しい。
「通りで、関係ないポテチとか、日持ちしそうな冷凍食品とか、そういうの多いな……と」
「ほら、今日は晴れてるし。元気元気!」
「元気元気!って……はあ、え、ちょっと待ってって!」
ぴょんぴょんと、進んだ君は、真っ赤な、酷く真っ赤で、少し赤黒くて、ぐしゃぐしゃになって、目の前で、
「リ、リョウくん…?」
それは、あまりにも急で、突然の出来事であった。
「っ、うそだろ」
と、思わず声が漏れる。相手のバスの運転手が、驚いた顔をしている。音が聞こえない。おまけに、何も見えないのだ。昨日頑張って、用意したんだと、自慢げにみせた、いちごジャムみたいに!上半身がぐちゃぐちゃになった君の顔が見えないのだ。ピクピクと細い足が動いている。生きているのか、でも、助かりっこないさ。ついさっきまで、楽しく語らっていた男が、いとも簡単に死んだのだ。呆然と立ち尽くす僕を嘲笑うかのように、救急車が来て、彼が物みたいに回収されて。「お友達ですか?」と聞かれて、この世の中の不公平を思い出す。「いえ、恋人です」、と言ったところで、彼に付き添い、悲しむこともできない存在なのだ。所詮、僕は彼にとってそういうものなのだ。
「ちょっと、目の当たりにして、ビックリしてしまって…」
僕にとって、これが限界であった。
(七)
彼の通夜なども滞りなく進み、みちみちとふたりで過ごしていた、この8畳間には、彼の写真と仏壇が増えた。
「パンケーキ、食べなきゃ」
ふと、そう思ったのだ。
俺はなれない手つきで、彼の作るものとは似ても似つかない、少し黒く焦げてしまった不格好な、牛乳多めのパンケーキをつくった。
君の作ってくれたジャムを、少しかけて。
「っ、あまい…」
もそもそとするパンケーキに、甘いのがどろりと絡まって。酷く甘いのだ。でもしょっぱくて苦くて、味がしないのだ。
「こんな甘すぎるの、あんまりだよ、リョウくん」
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