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或る男の話


(一)

俺は、多分おかしかったのだ。
ある種の魔物、とやらに捕まえられて、飲み込まれていたのかもしれない。灰色がかった部屋で、灰色の服を着て、孤独に正座を強いられている今、そんなことを考えている。考えるしかやることがないのだ。懲罰房にいる俺は、コツコツと規則正しく鳴る革靴の音を聞きながら、昔のことを思い出していた。なぜなら、それしかやることが無いからだ。

乱歩の『屋根裏の散歩者』を読んだのは確か、15にもならない頃であっただろう。その頃の俺は文学崩れとも呼べないほどの愚か者で、やれデカダンやら、やれ耽美やらと知ったかぶって、真似て、偉ぶっていたのだ。友人らはその頃、至極真っ当に、正しい精神で女体を夢見ていた。あのマシュマロのような柔肌は、どのような匂いがするのだろうか、とか、あのスカートの中身はどうなっているのだろうか、とか、隣の女子校を、丸めた教科書で見つめながら、飽きもせずに談義していた。毎日だ。そんな友人達のことを小馬鹿にしていた俺は、ご想像の通り浮いていた。女体について空想を練る暇があるのならば、フロイト、バタイユなどについて考えた方が面白いと思っているからだ。彼らにサルトルの存在論を、澁澤氏の如く説いたところで、「ストリップショーとか、行ってみてえよな!」と明るく返されてしまう。至極つまらない。大変つまらない生活であった。

時間の流れというものは残酷なもので、そんなことをつらつらと考えていた俺は、3年後、誰からも受け入れられない事態に陥ってしまう。かの文豪たちの時代は高校に入りさえすれば、そのまま大学に上がることが出来たわけであったが、そんなことはこの現代においてレアケースなわけであって。女体について自由に想像を膨らませていた友人たちは、それは有名な大学に進学し、念願の女体を味わい、青春を謳歌していた。対照的に、文学や哲学について頭でっかちに思考し、偉そうに彼らに対して論じていた俺は、浪人の末、彼らには到底及ばない三流大学でジメジメと過ごす羽目になっていたのだ。そう、この件によって、俺にはコンプレックスが付きまとうようになったという訳だ。

自分語りはこれくらいにして、本題に入りたい。まず、何故俺が今、こんな所にぶち入れられているのか、という話だ。
端的に言うと乱歩のせいである。彼が悪い。彼のせいだ。彼が『屋根裏の散歩者』なんて作品を書き上げ、出版しなければ俺はきっとここには居ないだろう。彼の話を模倣して、それがバレて、ここにいる。あの当時は、それはとてもウキウキして、いつもの、酷くつまらなくて、くすんだ日常とは程遠い毎日であった。「後悔はないのか?」という話だが、この件に関しては、胸を張って後悔は無いと言いたい。おかげで刑期は長くなるし、反省が見られないと、刑務所の中でも散々な目にあっているのは事実だが、ここで、嘘でも「後悔しています」と言ってしまったら、それは俺の美学に反する。それこそまったくの後悔であって、許されるものでは無い。己の人生より、俺は美学をとったのだ。

三流大学でジメジメとした生活を送っていた俺は、ろくにアルバイトをすることも無く、ダラダラと大量に積まれた本たちの中で適当な酒を飲み、ブツブツと己の思想について呟いて、惰眠を貪っていた。デカダン、と言ったら聞こえは良いが、ただのなまくら病である。痺れを切らした母親が、勤めている学童でのアルバイトを紹介してくれたのは21の春であっただろうか。あの日は珍しく寒かったのを今でも覚えている。前日に降った雨によって散った桜を踏みしめる嫌な感触が、長時間の正座で感覚の無くなった足裏に呼び起こされ、思わずむずり、と動いてしまう。

「池本、動くな」

教官の静かな怒号によって、懲罰の延長を察する。ああ、日が暮れそうだ。そろそろぬるくてどうしようもない夕飯の時間だろうか。刑務所の中の楽しみは飯しかない。飯しか変わり映えが無いからだ。有名な漫画家が刑務所の中の話を漫画にしていたが、内容の半分近くが飯の内容であった時点でお察しである。味は普通だ。ただぬるい。まったくもってぬるいのだ。特に懲罰房での飯は不味い。囲いも何も無い大便器に、監視下の中、クソをしろというのだから、刑務所という所は実に前衛的な変態である。俺は、飯が大変に不味いのもあって、クソをしないために、飯を食わないという行動をとったことがある。おかげで懲罰房での生活が3日から2週間になった。今の怒号で1ヶ月に膨らむのだろう、と灰色の壁をじい、と見つめながら考える。懲罰房の床と壁は同じ色をしている。そろそろふたつが合わさって、混ざりあって同化するだろう。そして、同じく灰色の服を着た俺も混ざりあって同化するに違いない。グルグルと、床と壁、そして俺が一体化する様を想像してニヤニヤと笑う。大便器は唯一の白色であるから、ひとつだけ孤立するのだ。なんて滑稽なのだろう。ああ、笑ったら口角が戻らなくなってしまった。

(二)

話を戻そう。話が脱線してしまうのは、昔からの悪い癖である。散々注意されても治らないものだから、きっとそういう病気なのであろう。
彼と、最初に出会ったのは、彼が11の頃であった。薄く、健康的に焼けた肌が、白いカッターシャツからちろちろと見え隠れしているのが、とても扇情的で、一瞬にして目を奪われたのを覚えている。しかし、その欲求は性的なものではまったくなくて、実にプラトニックなものであった。中古雑貨屋で、知らないキャラのフィギュアに一目惚れした、その感覚に近い。細い身体に、今後の成長を予感させる、今の身体には不釣り合いなほどの大きさの頭蓋骨がぽんと乗っかって、カフェの前に立っているグラグラと首の揺れる人形のような形だ。それは、彼が未成熟な少年であることを示しているといえよう。証拠とでも言うべきか、「こんにちは」と言う、さくらんぼのような紅さの唇から放たれた声は、変声期を迎えていない、少女のような声であった。彼の母親は、彼を置いて奥の事務室に消え、ふたりきりになる。

「こんにちは、初めてですか?池本です」
「…ぼく、ゆうき、はじめてきた」
「何年生?」
「6年生…」

恥ずかしがり屋の彼は、初対面の俺に対し、耳まで真っ赤にして、途切れ途切れに自己紹介をした。伏し目がちな目にくっついた長いまつ毛が、実に印象的であった。世間一般の美的感覚についてはさっぱりであるが、俺が"美少年"について定義をするならば、彼をその象徴として、代名詞としてあげるだろう。
彼の見てくれの評価に関しては、一度置いておこう。俺のアルバイト先の学童は、1年生から6年生までを対象としたものであった。そのため、6年生の春にここに訪れた彼との時間は、あっという間に過ぎ去って行ったのは言うまでもない。とてもあっという間であった。彼がここを訪れるのは、毎週火曜日と金曜日と決まっていた。最初はモジモジとしおらしく過ごしていたが、段々とその少年らしい快活な性格が見え隠れするようになったのは夏の頃であった。その日の俺は、いつも通り、子ども達にもみくちゃにされ、疲弊して、喫煙所で煙草をくゆらせていた。ミンミンゼミが最期の生命を振り絞ってうるさく鳴いていて、酷く暑かった。
ああ、しかし寒いな。この懲罰房というものは。今となっては、ミンミンゼミも、煙草も、日差しも、全てが羨ましい。ふぅっと煙草をふかすように息を吐くと、白色の蒸気がもわりと上がって、やがて消えた。
あの、酷く暑い日のことは酷く覚えている。喫煙所は外に設置され、植木を隔てて子どもたちの遊べる小さな庭がある。その植木がしなりと風で揺れた時、彼が、接吻をしていたのだ。彼が純真で無垢で美しく、穢れのないたったひとつの、唯一無二の存在であったことは前述から察して貰いたいが、その彼が、1つ下の学年の、百合という、これもまた清らげで、大人しい女の子とキスをしていたのだ。酷く軽く口付けをして、2人でふふふと笑うのだ。
その姿を見て俺は絶望した。それと同時に酷く興奮した。彼も友人たちと同じく、女体を夢見る男であったのだ。所詮は肉塊に過ぎず、哲学を思考するほどの余力もない、精神的破綻者であることは間違いないのだ。未成熟でまっさらな顔をした彼も、また、夜中にあらぬ妄想をし、右手にイチモツを抱え、布団の中で惨めったらしく震えるのだろう。ゆらゆらと思考を巡らしていると、じうっと、落ちた灰が肉を焼いたのだった。5年以上も前のことであるにも関わらず、その跡が消えないのは、この日を忘れないためであろう。己の肉体に対して、執念すら感じられる。あの日以来、彼の情事が脳裏にこびりついてしまった俺は、苦悩した。そして、ひとつの欲を生み出した。彼を誰よりも知りたい、と。
そこから俺の、空想が始まった。いや、実行したわけであるから、空想ではないのか。はは。

(三)

今日の夕飯は、ぬるく伸びきった、見た目からして不味いカップ麺のような、かと言ってこれをカップ麺とこれを呼んでしまったら、カップ麺を作っている企業に大変申し訳ない、酷く冒涜的な麺だ。刑務所という所、まして懲罰房なんて所は人権がない。いつだれが発狂するキチガイかわかったものでは無いので、鉄製のナイフやフォーク、箸なんてものはまずお目にかかれない。酷く食べにくい紙でできたスプーンを使って、器用にかき込む。ズルズルとぬるく、味のない小麦を伸ばしたものを食道に流し込む。随分手馴れたものである。人間の適応能力には誠に感服するなという、どうでもいい感想は、ゴクリと麺と一緒に飲み干した。麺には冷たい水だろうと、激情される方もいるかもしれないが、俺たちにそんな権利はない。麺とほとんど同じ温度の、面白みのないお茶をズッと飲み干す。カップ麺のような、と最初に言ったのはきっとこの容器のせいだろう。プラスチック製の、使い捨ての皿を配膳口に戻すと、待ってましたと言わんばかりの早さで回収される。まったく、情緒の欠けらも無い所である。

夕飯も終わったことだ。それでは、実行編と参りたい。
俺とは違い、とても優秀な諸君は乱歩の『屋根裏の散歩者』を読んだことがあるだろうから、ここからは退屈かもしれない。しかし、懲罰房に入れられた、酷くつまらない男の思考を散々見てきた諸君らは強い。既に退屈への耐性がついているだろう。
話は今から、3年前。それは、丁度彼が高校生になった頃の話である。俺は、大学卒業の末、大学院まで卒業した。ひとえに彼のためである。賢い方なら粗方の想像がつくと思うが、俺は、彼の通う学校に就職した。予想の通り、身長も伸び、精悍な顔つきになった彼は、詰襟を着て、友人たちと、当時の彼らのように、わいわいと楽しげに過ごしていた。運良く彼のクラスの教科担任になった俺は、快活な彼の姿を沢山見ることができ、それはとても楽しい毎日であった。

ああ、あの日の話もしたいな。あれは確か、はじめての授業の後だ。

「池本先生」
「どうした、宮本」
「先生と俺、どこかで会ったこと……」

あの時、「ああ、あるよ」と言っていたらどうなっていたのだろうか。「他人の空似じゃないか?」と煙草の灰で出来た火傷の跡をさする。「そっか」と矯正中の歯をぎちりと見せて笑うと、すたすたと教室に戻って行った。俺は、彼にここまで狂わされているのに、彼の世界では、俺なんて既に消えかけた存在であって、「そっか」で終わってしまう存在なのだ。百合はどうだろうか?彼女とはどうなったのか、性交渉はおこなったのか?少なくとも俺よりも、彼の歴史に濃くその姿があるに違いない。ゆらゆらと、えも言われぬ感情が芽生えていく。彼の歴史に、名を残したい。そう思ったのだ。現に加害者として、彼の歴史に名を残すことは叶ったわけである。本望を果たしたのだ。故に、後悔や反省とは無縁というわけだ。
ちらりと教室を覗くと、彼は机の上に腰掛けて、片手にスマートフォンを持ち、ゲラゲラと下品に笑っていた。哲学や美学、文学にまったく興味のなさそうな、一般の、酷く期待はずれな青年になっていた。

「宮本、机の上に座るな。あとスマホ、閉まっとけ」
「はーい…で、どうだったんだよ橋本〜!」
「うるせ〜な、黙ってろよ童貞」
「宮本くんは顔はこんなに綺麗でイケメンなのに、ど〜〜〜して童貞なんですか?」
「吉田もこちら側だろうが、ほら、顔撫でるな気色悪い。ホモかよ」
「ホモなわけ」
「いっそホモだったら、俺様に?実録体験記を聞く必要も無いわけでありまして?」
「うぜ〜〜〜!!!」

男子校特有の、非童貞の、実に汚らわしいマウントを目の当たりにして、嫌な気持ちになる。なにより、この会話に彼が混じっていることが耐えられない。吐き気を催した俺は、その足で便所に向かった。胃液を吐き切ると、げっそりとした犯罪者のような顔が鏡に浮き上がってきて、たまらない恐怖心に飲み込まれた。


(四)

就寝の時間だ。薄い毛布のような座布団のような小汚い継ぎ接ぎの布にくるまって寝る。コンクリートの床と同化する。懲罰房の中の寒さが酷いためか、頬に触れる床の冷たさを全く感じない。ガクガクと寒さに震える気力もない。眠ろう、眠ろうと目を瞑ると、彼の顔が浮かんだ。目がかっと開いた、絶望と驚きの交じったような、最後に見た、あの顔だ。

「ふっ、ふふ」

コツコツと鳴り響く革靴の音に掻き消されてしまうほどの小さな声で笑う。美しいあの顔が、俺によって酷く歪んだ様が実に傑作で、この上のないほどの芸術であった。ああ、俺は思想家でもセンセイでもなく、芸術家だったんだ、真の芸術家、アーチストであるんだと、あの時、確信した。

昨年の3月末、俺は学校を辞めた。親の介護と言う理由で退職したが、真実は異なる。彼の歴史に名を残すためである。
実家には『探すな』とだけ置き手紙を残し、家を出た。その足で様々な契約を解約し、衣服や眼鏡もノンブランドの、特定のできないものに変更した。保険証やパスポート、免許証、通帳などは全て失効、ハサミで粉々にして、海に投げ捨てた。全財産の100万のうち、5万だけをポケットにねじ込み、残りの95万は山に埋め、万が一に備えた。万が一、まさに今のことである。
すべてを捨て、何者でもなくなった時、はじめてまともになれたように感じた。空が青く感じたのだ。日陰者として長く暮らしていたが、あの時の開放感は、それは異常なものであった。

彼の家の二階の窓がいつも開いていることは知っていた。初めて入る彼の部屋は、土と汗と精液の臭いが混ざったような、しかし不快ではない、ある種の爽やかさも感じさせるような香りが充満していた。

「お邪魔するよ、裕貴くん」

ストンと着地をする。この時間、彼の家には誰も居ないことくらい、よく分かっている。風呂場に向かうため、彼の部屋を堪能することもなく下に降りる。なぜなら、これからはずっと一緒だと思っていたからだ。初日にすべてを満喫し尽くしてしまうのは風情がない。
ギイギイと板を踏む音が偉く響く。ああ、喉が渇いたなと、キッチンに向かう。冷蔵庫を開け、2リットルのペットボトルに入った緑茶を取り出す。ねっとりと注ぎ口に唇を貼り付け、こくこくと飲む。ペットボトルの緑茶特有の、後味の甘さが口に残る。異様な高揚感と幸福感に、脳が支配される。

風呂場につき、換気扇を触ると、予想通り簡単にそこは開く。この日から、俺の住まいとなるそこは、ホコリと湿気の混じった、酷く劣悪な環境であった。風呂釜の縁に立ち、這い上がる。真っ暗だ、何も見えない。蓋を戻すと、ほぼ完全たる闇が支配する。そこは、狭い。しかし安心する場所であった。まるで母胎回帰のような心地、とでも言おうか。ゆらゆらとした時間が流れるのだ。それはとても心地の良いものであった。

「ただいま」という声と、ガチャりと鍵の開く音がする。この声は、彼だ。ドクりドクりと心音がうるさい。あまりにもうるさいので握りつぶしてしまいほどである。
幼き頃からの癖なのか、誰もいない家に向かって「ただいま」と律儀に言う彼。また知らない彼を俺は知ることが出来たのだ、と、メモ紙とペンをポケットから取り出して夢中で記録した。まあそれらは全て没収された訳だが。

ダクトの中に寝転がって、何時間経ったのだろうか。時計を忘れたことを俺は、酷く後悔した。明日、彼の部屋から勝手に拝借しよう。このままではオカシクなってしまう。そんなことを思っていると、風呂場の電気がつき、ドアがバタンと開いた。
何時間ぶりの光であろうか。人は暗闇に長くいるとキチガイになってしまうと、かつて聞いたことがあったが、あれは間違いだ。キチガイにならざるを得ないのだ。まず時間の感覚が分からなくなる。闇に飲み込まれる、とよく言うが、闇に成るのだ。そして次第に、己が誰なのかも分からなくなっていく。闇の中に眼球だけふわふわと浮いているような、異様な感覚を覚えるのだ。目玉の親父が狂っていないのは異常だ。目玉の親父は狂ってなんかいないぞと漫画家様のファンの方から石を投げられそうだが、こんな懲罰房の床と同化している男のことなんて、世間様は知る由もない。空想は自由である。ともあれ、あれはやはりおかしい。目玉のくせに親父であると名乗っている時点で完全な異常者だ。やはり人間は目玉だけになると壊れるのだ。

一糸まとわぬ姿で、彼が風呂場に入ってくる。薄く骨の浮いた身体に、艶めかしくシャワーの水がびちびちと当たる。若く油っぽい肌は、めいっぱい受け止めた水滴をぱらぱらと弾く。浅黒い肌、と長らく思っていたが、それは間違いであった。くっきりとTシャツの跡がある。布に包まれて見えなかった部分はとても白い。その青白い肌から、血管が浮き出ているのが見える。彼がくうっと背骨を丸め、頭を洗うと、背骨の形がよく分かって面白い。顔を洗い身体を洗う。当たり前の作業が、当たり前のように目の前で繰り広げられる。しかし、その当たり前は、俺にとっては恐ろしい程に刺激的で、今までの、プラトニックな感情とはまったく異なる、酷く邪な感情、いやらしく、どす黒く、歪んだ、人様に見せられないような、空想さえもはばかられる、そんな感情を抱かせる力を持っていた。
思えば、ここが1番の、人生のピークであった。
彼だって一端の性少年である。どんなに美しくとも、彼も人間である。俺は、その事を完全に忘れていたのだ。風呂場の椅子に座った彼は、流しっぱなしのシャワーに打たれる形でペニスを握る。身体の割に細く、小ぶりなペニスは、数回の上下運動によって、むくりむくりと膨張していく。発育途中の、若々しき勃起であった。所々で「うっ…」と苦しむ声が聞こえるが、その声は直ぐにシャワーの水音で掻き消されてしまう。
顔は見えない。当たり前である。ふるふると揺れる肩と、力が入ってぱつぱつに、浮き彫りになった背骨、直ぐに水に流れ落ちてしまった薄まった白濁、それだけの情報で十分だった。彼は、あの純新無垢で美しく、人形のような、完全たる彼は、もう居ないということを、彼の身体をもってして、俺に知らしめたのであった。俺は絶望した。しかし、絶望、という二文字で簡単に表してしまうのはなんだかつまらない。絶望よりも深く暗い気持ちだ。この排気口のように暗く、長く、深いところに落とされたような感覚、地獄だ。

ああ、彼の自慰を思い出して気分が悪くなってしまった。むくりと灰色から起き上がった俺は、純白の便器に擦り寄って、抱き抱えるようにして嘔吐した。おえっと、身体の中の違和感を吐き出すと、胃液の苦い味が広がった。いがいがする。ああ、水が飲みたい。この懲罰房には、そんな恵まれたものなんてひとつもないのに、人間というのは実に贅沢である。物を吐き出したから物を取り入れたい。愚かな話である。口に残る不快感をどうすることも出来ない俺は、再び床に同化した。


(五)

諸君、目覚めはいかがかな?俺の目覚めはいつも通り最悪であった。
適当に出された朝食は、バナナに食パン、そしてぬるいお茶であった。ぬるいお茶を出さなければならない法律でもあるのかと、お茶の温度に対しても苛立ちを覚えるようになったので、この生活も些か限界なのかもしれないと、灰色の壁を見つめながら思うのであった。もしゃもしゃと水気のない食パンを口に運び、これもまたモサモサとしたバナナを飲み込む。仕上げにぬるく中途半端極まりないお茶を飲んで虚無を見つめる。さて、昨日の話の続きをしようか。

彼の自慰を目の当たりにした俺は、気分が悪くなり、ダクトの中でぐったりと横になったまま寝落ちてしまった。翌朝は、朝シャワー派の父親の、至極不快な鼻歌によって起こされ、それはとても最悪な目覚めであった。2日目は、全ての人が出払った後、風呂を拝借して入浴した。昨夜に、酷く絶望をしたのは忘れたのだろうか。人間というものは実に欲求が凄まじい生き物であって、気付くと、俺は彼の流された精液の跡を探るように風呂の床を舐めていた。30前の大男が、ぺろぺろと床のタイルを這いつくばって舐める姿は、実に滑稽であっただろう。ひとしきり堪能した後、彼の使用していたシャンプーを口に含んで洗髪した。シャンプーの苦い味と、彼の頭部から微かに放たれていた芳香が、口いっぱいに広がる。ゾクゾクと背中から震えが襲ってくる程に興奮した俺は、シャンプーをゴクリと飲み込んだ後、彼が自慰に使用していたボディーソープが目についてまた吐き気を催した。ああ、飲んだものが出てしまったじゃないか。吐瀉物を排水口に流し、外に出る。溜まっていた洗濯物を漁り、彼が、昨日身につけていたであろうワイシャツを拝借し、それで身体を拭いた。着替えなんてものは存在していないので、昨日身につけていたチノパンと長袖のカットソーを再び身につけ、脱衣所を出る。今日は、彼の部屋を散策したいと思っていたが、死ぬほど吐いたのもあり、腹が減った。そう言えば彼の家に来てから何も飲まず食わずである。
便所!たとえ飲まず食わずで一日を過ごしたところで、排尿の機能というものは十二分に活動をしているというのを、諸君はご存知だろうか。仕方なしに彼の父親がシャワーを浴びている最中に、こっそりと換気扇の格子の所から排尿したのを、ここで白状したい。本当に申し訳ない。
適当に食料を物色し、飯を食う。はじめてあの家で食った食事は確か、今朝と同じく食パンであった。たっぷりとブルーベリー味のジャムを塗って2〜3枚食べた。今朝の五流の食パンとは遠く離れた、柔らかく甘美な味を今でも覚えている。
食事後、便所に行き、彼の部屋に向かった。ガチャりと扉を開けると、薄青い壁紙に、子どもらしさの残る机やベッドなどが転がっているのが、なんともいやらしい。初めに嗅いだ、むわりとした、しかしどこか爽やかな香りが鼻をつく。ああ、また窓が開いている。なんて無用心なんだ。そんな無用心な彼が寝ていたベッドには、無数のティッシュペーパーが転がっている。中には何があるのだろうか。気になって、気になって仕方がない。ひとつ拝借し、くしゃくしゃであったものを開いて匂いを嗅ぐと、男の匂いがする。なんとも表現しがたい、性に塗れた匂いがするのだ。嗚咽しながらも、実に欲求に正直に、紙ごと食らって飲み込んだ。夜の彼が見たいのだ。人間とはまこと欲深い生き物で、ひっそりと見守るだけでは飽き足らず、また次の欲を容赦なく生み出すのである。己の欲深さには辟易する。無欲であることを美しいとした時代もあったが、これはまことに、正しい。しかし、欲深い生き物であるからこそ、欲求があるからこそ、美学や哲学といった、美しく頭でっかちな学問が開かれたのだ。欲求万歳である。
ベッドの下を覗く。すると、がらんとした空間が広がっているではないか!嬉々とした俺は、ごろりとそこに入り、仰向けに寝転がる。彼の、匂いが充満する。実にいやらしく、しかし清々しい気持ちで満たされる。

「すごい、俺はすごいことをしているんだ……!」

ギラギラと視界が冴える。興奮の出力を間違えた俺のペニスは隆々と勃起している。滑稽だ。あまりにも面白いので声を出して笑う。

「はっ、はは…」
「池本、何が面白いんだ」
「はっ、頭の中にある、小説を読んでいた次第です」
「静かにしていないと、また期間が延びるぞ」
「あ、はい、気をつけます……」

危ない危ない、今日の当番は比較的温厚な男であったから救われた。空想に空想を重ねていると、自分が、灰色の箱の中でひたすら暇を持て余している、犯罪者であることを忘れてしまう。また懲罰の期間が延びてしまっては、それこそ本物のハイジンになってしまう。鎖に繋がれて毛布でぐるぐる巻きにされるなんて、御免だ。実に避けたい未来である。

彼の部屋の中に住居を移した俺は、2度目の彼の帰宅を歓迎した。相も変わらず誰もいない家に向かって「ただいま」という。寂しいので「おかえり」と小声で返してやる。決して気づかれないように、とても静かに挨拶を交わしたのだ。愉悦である。

「うぃ〜……、あ、課題やんなきゃな。いやーめんどくせ、後でいいや。飯食ったらやろ」

一丁前に独り言をぶつぶつと言った彼は、ドスンと制服のままベッドの上に寝っ転がった。彼の重みでギジリとベッドが軋む。

「やべ、寝そう」

ストンと立ち上がった彼は、服を部屋着に着替える為か、ゆるゆると服を脱ぎはじめた。丁寧に詰襟をハンガーに引っ掛け、ズボンも、とても几帳面に折って引っ掛けている。しかし、脱がれたシャツと靴下、肌着は床にだらしなく放置され、適当なジャージに着替え終えた彼は、部屋を後にした。
彼が居なくなり、ふぅ、と一息をつく。ぬるりとベッドの下から脱出し、つい、先程まで彼の身につけていた靴下を手に取った。まだほんのりと温かさが残っている。すうっと嗅いで口に含むと、汗の交じった革の匂い、味がする。薄らしょっぱいその味を、ちうちうと吸う。しばらく堪能して、ふと、我に返る。なんて気色の悪いことをしているのだろうか。恥ずかしさよりも己の恐ろしさに目眩がする。しかし欲求には抗えない。どうやら俺は、あまりにも欲に忠実な、獣のような、とても人間とは思えない様になってしまったらしい。次は、シャツだ。脱ぎ散らかされた白いワイシャツに、顔をうずくめて、大きく息を吸う。汗の匂いと、小洒落てつけたであろう、安い香水、か、制汗剤のような香りがする。薬物のように中毒的な香りだ。すんすんと何度も香って、その匂いを忘れないように、何度も何度も噛み締めた。
あの時に嗅いだ、郁々たる香りを思い出して、すうっと鼻で息を吸うと、寒さで鼻の奥がツンと痛む。懲罰房の寒さは何とかならないのだろうか。誰か、国の偉い人が入って改善を呼びかけて貰えないだろうか。ああ、偉い人は刑務所なんかには入らないか。所詮は異常者のための施設である。そんな所にお金を使うくらいなら、もっと他にやることがあるのも確かだろう。いやしかし、とても寒い。つま先の感覚なんてものは、もう既に無いに等しいのだ。このままでは本当に、俺は、懲罰房と一体化してしまうのでは無いのだろうか?やがて全ての感覚が失われて、全てが灰色になって、声も出せず、クソも出せない、無機物となってしまうのでは無いのだろうか。それはそれで、かなりの喜劇的な展開なのかもしれないが。

さて、2日目の夜の話をしよう。完全に獣と化した俺は、住まわせてもらっているということも忘れ、完全に暴走していた。性欲に飲み込まれていたのだ。彼のいない間に、俺は、彼の水色のボクサーパンツを拝借していた。まず、ここでもうアウトである。下着という、完全たる下心の象徴を、鼻の下を伸ばしながら、酷くニヤつきながら、勝手に拝借したのだ。パンツのクロッチの部分に鼻をあて、深呼吸。とても深い深呼吸を何度もして、柔軟剤の香りの奥にある、彼の香りを探した。
彼が再び床に入ったのは夜中の12時も過ぎた頃であった。有言不実行の彼は、夕方に独り言で宣言した課題もしないまま、スマートフォンを弄りながら布団の中に潜ってしまった。もずもずとベッドが動く。布団にくるまった彼は何をしているのだろう。耳を澄まして、息を潜める。すると、

「っ…ぁ、はぁ、っ…っ……」

と、とても小さく、でも確かな喘ぎ声がぬちぬちと言うこれもまたとても小さい音と共に聞こえてくるのだ。実に不快である。健全たる性少年である彼にとって、至極当たり前のことであろう自慰行為に対して、俺は、なぜこのような不快感や嫌悪感を示しているのか。性的なものに対しての異常な嫌悪と、タガが外れた際に起こる、異常な性衝動、行動。自分自身が何者であるのか、何を思い生きているのか、欲求を制御できていない時点で俺はもう、人ではないのではないか。と、彼のとても小さなよがる声をBGMに、思考を巡らせるのであった。
はたりと、淫猥な空気が収まる。すると、すうすうと寝息が聞こえてくる。彼がようやく眠りについたのだ。どのような夢を見るのだろうか、どのような顔で眠るのだろうかと、知的欲求が湧き上がってくる。ぬるりと外に出ると、案の定、自慰行為の証明でもするかのように、ティッシュペーパーの丸まったものが数個、床に転がっている。そこからひとつを選び、新鮮な彼の体液を、べろりと摂取する。すると、口内に、イカ臭い、苦く青い味が広がり、恍惚の世界にトリップする。彼の寝顔を確認すべく、ゆらりと身体を起こす。すやすやと眠っている彼の口は中途半端に開いていて、隙間から、桜色のべろがちらりと覗いている。

「こんばんは、裕貴くん」

俺の声に反応してか、「んんっ…」と眉間に皺がよる。しかし、それはすぐに元に戻り、やさしく、力の抜けた顔でまた夢に落ちる。この柔肌は、どんな味がするのだろうか。無意識に舌が歯裏をなぞる。

「失礼」

べろりと頬を舐めると、人間特有の少し塩味のある、柔らかい味がした。髭のザラつきが舌を捉える。髪の毛はこんなにも柔らかく絹のようであるのに、髭というものはやはり風流から遠く、世俗的で麗しくない。彼の柔らかい肌を台無しにする、その黒いザラザラとした物が醜い。

「ダメじゃないか、髭なんか生やして」


肌を撫で、口元に口付けをしようとしたが、これは俺の美学に1番背く行為なのではないか、と我に返る。欲に操られ、我を失っていても、美学に背くのは真の悪行である。そんなことしたものなら、今ここで己の首を絞めて、苦しみ悶えながら死ななければならない。

「女と間接キスなんて、まったく、いやらしい」

彼の上に馬乗りになり、何度も香りを嗅いだ。今思えば、こんな蛇足的行動は慎むべきであった。しかし、あの顔を、暗がりではあるもの、目の前で見られたのはこの上ない幸福であろう。

「っ……先生……?!」
「ああ、起きてしまったか」
「えっ、いや、いやっ!!やだ、やめろ、やめてくれ!」

じたばたと暴れる彼の足を自重で押さえつける。絶叫し、恐怖でたまらなくなった彼の目は酷く潤んでいて、黒目が大きく開いている。なわなわと震える肩を掴んで、

「大丈夫、なにもしないから」

と優しく言うと、しゃくりあげながら泣いている。恐怖のためだろうか、馬乗りになっていた身体に湿り気を感じる。

「裕貴、ダメじゃないか。おもらしなんかして」
「いやだ、こわい、やめてくれ」

慄く彼を他所に、湿った布団をじゅるじゅると啜った。「おいしい、おいしい」と何度も口に出して啜ったのだ。その時、彼の両親が部屋入ってきて、俺はお縄になった、って訳だ。

いやあ、実に傑作である。人様は俺の事を「ショタコン野郎」だとか「変態教師」だとか何とか揶揄するが、俺は決して変態ではないと、ここに声を大にして言いたい。
あと何日このような生活を続けるのだろうか。その問いは一向に聞けぬまま、昼飯も夕飯も過ぎてしまった。時間の感覚が、飯によって確保されるだけ、刑務所という所は人間らしい生活を送れる素敵な場所なのかもしれない。そう、俺とは異なって、全ての感覚が失われた、頭のおかしい奴らにとっては、だが。
楽しい思い出話も、長く続けるとただの退屈な雑音である。そろそろ就寝の時刻である。長らくのお付き合い、大いに感謝する。それでは、良い夢を。

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