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厨二病にかかったら生まれ変われた話

こんにちは。一度生まれ変わったぷゆです。



今日は若干暗い話なので苦手な人はお帰りください。



私はそれはそれは重度な、厨二病のようなものにかかっていたように思う。

(今でも後遺症が残ってるかもしれない。)


私は、その頃死にたくて仕方がなかった。

明確な理由などありませんでしたが、死んだ方が楽だと思ったからです。

そのくらい漠然とした生き辛さが当時からあった。




私はその時も考えていました。

子供ながらに考えた末に、死が一番楽だという結果にたどり着きました。

どうせ最後はみんな死ぬんだから。

死ねば何も考えることもない。

感情もない。

概念もない。

ただ、死んだ後の世界が存在するのなら、それほど不幸なことはないなと思いました。

それだけは死んでみないと分からないことです。

死んだ後になんらかの世界が続いていたとしたら、私は死んだ意味がない。

私は無になりたかった。


私は死ぬことを毎日想像して考えた。

死んだら何もかも終わるかもしれないし、

何かが始まってしまうかもしれない。

死に方はどうしようか。

遺書には何を書くか。



そんな中、私はあることを考えた。

死ぬのはいつでもできる。

でも仮に明日死ぬなら私は今日、何をするだろう。

考えてはみたものの、選択肢がありすぎた。明日死ぬなら何してもいいじゃんと思った。

そしてきっと私はその一日を最高に楽しく過ごすことができると思った。そして最後の最後に惜しんでしまうだろう。明日もあればなぁと。

だったら明日も、明後日もそんな風に過ごせば生きたいと思い続けることができるのではないだろうか?

だって明日、私は死ねるのだから。

死ぬほど恥ずかしいことがあっても明日死ねるし、死にたいほどの失敗をしてしまっても明日死ねるのだ。

いつ死んでもいいのなら、私は今から好きなことが出来る。

最悪、明日死ねばいいと思えば何をするにも気持ちが軽くなった。自由になれた。


私はこの時生まれ変わったのです。

ロマンチックに言うと、灰色の世界に色がついたような感じです。

え?私、なんでもできるじゃん!と興奮したのを覚えています。

そうです、アホです。

しかし何故今まで何もできないと思っていたかが不思議なくらい、世界が広がりました。

私は一体何に囚われていたのでしょうか?




"世の中には生きたいのに生きられない人がいる"

死にたいと言うとよくこの言葉を言われることがありますが、私はそんなこと知ったこっちゃありませんでした。

わたしはその人の代わりにはなれないし、その人の周りの人も、その人が生きていないと意味がないと思う。

仮に私の大切な人が死んで、知らない人が急にその人の代わりに頑張って生きていきます!なんて言ってきても、は?ってなるだけだと思う。

けれど死に直面した人は、

"もっと元気だったらこんなこともできるのに"

"もっと長生きできればあんなこともできるのに"

その"こんなこと"や"あんなこと"が私にはできることに気付いたのです。そしてそれを気付かせるための言葉だったのだと。

私はそれを遠回りして違った形で理解したのだと思います。




この文章はアホなことを言っているのを重々承知で書いております。

それでも当時の私が真剣に考えて出した答えです。

今、生きるのがしんどい人に、少しでも生きる気力が芽生えればなと思っています。



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