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立場による感染対策の違い 身軽さがキモ

職場の感染対策がさらに一段階厳しくなった。
不織布マスクでOKだったのに今後はN95マスクは義務だという。

N95マスクはかなり呼吸がしにくい。つけっぱなしは非常にしんどい。ただ自分が働く大きな病院ではある程度仕方がないと割り切っている。


一方で、子供にもマスクを、体育でもマスクを、ショッピングモールでもマスクを、という人たちを見ることがある。この炎天下の中マスクを強要するのは熱中症患者を増やすし、都市部の救急患者受け入れ病院はさらに仕事が増えてしまう。

核家族化が進み一人暮らしが多い昨今では持病もない健康な人はこの世界にいなくなってしまったかのような対応ばかり。メディアばかり見ているとネットの世界、テレビの世界の生きにくさを実感する。多様性とかSDGsってのは名ばかりなのかしら。

高齢者と同居していたり持病がなければそれほど神経質にならずにゆったり暮らせばいい気がしているけどダメなんだろうか。何も耳元で唾が飛び散るような語りかけをするわけではないし、ソーシャルディスタンスをしっかり保っているならそれでいいんじゃ?

自分の置かれた立場によって感染対策の必要度は違う。これを一律にこうしなさい、と主張するもんだから一方ではうんざりするし一方では対策しなさすぎだ!となる。ただ、どちらもマウントの取り合いになるのは不毛でどちらにもその人なりの正義があるのだからお互いが譲ることはない。こういう構造を理解したうえで僕らはなにができるかを考えた方がいい気がしている。

所詮はお願いベース。細かな法律なんて作りようがない話で個々の立場の違いがあるのだから『こういう状況の時はマスクまでつけてくださいね』と言うしかない。お願いを聞いてもらえなかったときにディスることをしてしまうと必ず陰性感情の種を植えることになる。もっとお願いしなきゃならない場面でお願いを聞いてもらうのに余計に労力がかかる。こういう構造を理解していくとディスること、怒ることは窓から投げ捨ててしまう覚悟が必要だ。今着ている洋服よりこうした陰性感情は役に立たないどころか自分の首を見えないロープで絞めていることに気づきさえすれば大事にしていた陰性感情はすんなり窓の外へ捨てられる。ディスったりするといつか自分がディスられるターンが来た時には倍返しになるだけ。なのでさっさと陰性感情は捨てて生きよう。


コロナは一時収束しかかった。しかし揺り戻しは今のところやってきそうだし、政治に期待はできなさそうだ。特に日本は政治に関心がないという状態で国民の様々な分野での能力は多様性を履き違えていて衰退の一途をたどっている。こういう社会環境では特に何かに期待したりすることの方が馬鹿げていて自分が前進するために、豊かに暮らすためにどうしたらいいかに注力したほうがいい。他人は他人。立場の違いに干渉せず生きていくことがコロナ時代のドレスコードなのかもしれない。

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