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番外編 透明人間

夫がいる時の私は、まるで透明人間のように外出した。


方言もダメ。

普通の声では大きすぎるからダメ。

驚いて声を出してもいけない。

つまづいたりしたら恥さらし。 

 夫は他人の視線を集めることを極端に嫌悪した。だから買い物中、私が具合が悪くなってもいけないし、可愛い雑貨に喜んでもいけない。夫といる時は余計なことは言わず、夫が求めるような感想を言い、自尊心を満たすのが私の役目だった。私は一日中、抑えた声で「うん、そうだね」と言うだけだ。
 

 家族で外出すると、電車で騒ぎすぎる小さな子どもを注意すべき場面が必ずある。しかしそういうときも、周りの視線を一切浴びないように、そっと注意しなければならない。ぴしゃん!と叱ることはできない。

 私は子どもに無言で視線を送ったり、肩をトントンとしたりするしかできない。そんなことで子どもに伝わるわけはないのだが、夫が私の行動を見ている。


「え、何?ママ!今の何?!」

大きい声で子どもが言う。しまった!と思う私。夫は知らん顔。

 夫は電車では私たちと離れたところにいて、ずっと携帯をいじりながら私の出方を常に観察している。だからできるだけ言葉は短く「なんでもいいから静かにして」とぶっきらぼうに子どもに言う。


「ママ!みて!あの雲の形、クマみたい!」とはしゃぐ娘。

本来ならば、このかわいい話に乗って「ほんまやねえ、あっちの雲はアイスクリームみたいだよ」と楽しく会話をすることは、周囲の状況からも許されるべき、ほほえましい場面のはずである。

しかし夫の前では、子どもの話に乗ると「恥ずかしい。みんな見てるからやめて」と言われてしまう。

だから私は娘を叱る。「電車では一言も話しちゃダメ!迷惑でしょ」と。
 


 私(とおそらく周囲)が許容範囲と思っている程度のことでも、夫がどう思うか、を基準に叱らなければならなかった。
 例えば、歩行者がほとんどないような田舎道で、多少はしゃぎながら歩くことは何の問題もないはずだ。しかし夫がいると、許容範囲が一気に狭くなる。こどもと歌を歌いながら歩いたり、子どもの空想に付き合ったりしながら歩くような幸せな時間さえ、夫は絶対に許さないのだ。

だから私は、透明人間でいることにした。

周囲に存在を気づかれないように、声も出さず感情も出さず、ただ世界の空気のように過ごす。自分の人生でありながら、エキストラのように、背景のように振舞うのだ。
 

 外ではおとなしい夫だが、家では急に大きな声で怒ったり、娘が反抗した時には家の外に引きずり出したりした。そして私のことは無視。

そうだ、家でも透明人間でいればいいのだ。

そして私は、事態が収まるのをただ我慢した。

家族が静かにしていれば夫の機嫌は良かったのだ。できるだけ、音を立てないように、感情の波を立てないように、空気のように、求められたら答える、放置されたらそのままでいる。そうすれば夫の不機嫌スイッチはONになることはないはずだ。

 こうして日々は過ぎ、夫の不機嫌スイッチ発動に理由はなく、ただの気分であることに気づくのに、10年も費やした。


幸せも感動も存在も、何もない。私が存在すること自体が、相手をイラつかせているような日々だった。

あるのは、

無言、 無音、 不機嫌、 無視、 我慢 、無関心

これが、モラハラの実態である。


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