見出し画像

損益分岐点からみるウクライナ戦争と防衛費の増大が尖閣危機を高めるという衝撃の結果



戦争の損益分岐点について


 戦争の損益分岐点について考察してみます。

 ある軍事国家が他国の領土を侵略しようと考えたとします。
 この時、軍事国家が侵略によって獲得した領土にかかる利益と損失をプロットしたのが以下の図になります。



 軍事国家はおそらく「領土の拡大」を「利益」と感じると想定されます。そのため侵略によって獲得した領土と利益は正比例の関係性をとります。(※なお、ここではモデルを単純化するため、単位当たり領土の価値の戦略的文化的経済的差異については無視することとします。)

 一方で、損失については、どうでしょうか。
 よく知られているように、クラウゼヴィッツは『戦争論』において、戦争における損失は獲得領土に対し幾何級数的に増大していき、やがて攻撃の限界点を迎えると説きました。つまり敵地のより奥深くに侵攻するほど、防衛側の抵抗は強まり、それと反比例するかのように味方の兵站は長大化していくため、一単位当たりの領土を獲得するために、より多くの損失を支払わなくてはならなくなります(これはある意味で経済学でいう限界生産力逓減の法則と同様のものです)。
 そのため、損失は幾何級数的な曲線になります。

 図においては、利益直線と損失曲線の交点が損益分岐点となります。言い換えれば、この損益分岐点Pよりも多くの領土を獲得しようとすれば損失が大きくなり、より少ない領土の獲得であれば、利益が損失を上回ることになります。

 ところで戦争というのは、かなり不確実性の高い事業です。そのため事前計画として、いくつかのシナリオプランが用意されるのが一般的かと思われます。このうち「最も理想的なシナリオ」と「最悪の事態を想定したシナリオ」をプロットしたのが以下の図になります。


 この「理想的シナリオ」の損益分岐点と「最悪の事態を想定したシナリオ」の損益分岐点をそれぞれP₁、P₂とした時、この二点間に挟まれた範囲を、ここでは仮に「期待値バンド」と呼ぶことにします。


 侵略国家にとって、戦略目標として獲得すべき領土が、この図上のどこに位置するかは、侵攻判断の重要な基準になります。

 戦略目標Oが下図のように「期待値バンド」より右側に位置する場合、言い換えれば、最も理想的なシナリオを想定しても損失が獲得利益を上回る(あるいは戦略目標の獲得がそもそも不可能な)場合、侵略国家は軍事侵攻を断念するのがいいということになります。


 一方で、次図のように戦略目標Oが「期待値バンド」の左側である時、最悪のシナリオを想定しても利益は確保されているので、侵略国家は軍事侵攻を決断するのが望ましいといえます。


 それでは戦略目標Oが「期待値バンド」の範囲内に位置する場合はどうでしょうか。



 このケースにおいては、侵略の損益がどちらに転ぶかは、実際にやってみないとわかりません。

 とはいえ、政策担当者はその判断において将来的な見通しも考慮にいれるでしょう。つまり彼我の軍事力は静的なものではなく、より相対的でダイナミズムを持つものとして捉えられます。

 そこで、将来的な見通しとして、期待値バンドが右シフトする場合について考えてみましょう。期待値バンドが右シフトするとは、相対的な軍事バランスが侵略国家に有利になる――侵略国家の軍事力が増強される(あるいは防衛国家の軍事力が弱体化)――ことを意味します。


 この場合、侵略国家の最適行動は「保留」です。
 この傾向がこのまま続けば、いずれ戦略目標Oが期待値バンドをラインアウトする可能性もあるのですから、危ない橋を渡って今すぐに軍事侵攻に出る必然性は薄くなります。「機が熟す」のを待つとよいでしょう。

 では、これとは逆に期待値バンドが左シフトするケースにおいてはどうでしょう。
 今度は相対的な軍事バランスが侵略国家に不利になる――防衛国家の軍事力が増強される(あるいは侵略国家の軍事力が弱体化)――見通しが高い状況です。



 この状況下においては、侵略国家が軍事侵攻を決断する蓋然性は高くなります。特に戦略目標Oが期待値バンドを右にラインアウトしてしまえば、それ以降はノーチャンスになりますから、「勝機のある今のうちに勝負に打って出よう」と考えるのは合理性のある判断です。
 いわゆる「ピークアウトの罠」と呼ばれる現象です。

ウクライナ戦争の損益分岐点からの分析

 ここで、ロシアの軍事侵略により始まったウクライナ戦争を、損益分岐点の観点から考察してみます。

 それというのもウクライナ戦争の考察において、マスメディアの主流な見解は「ロシアを大国化する野望を抱いたプーチン大統領が、圧倒的な軍事力を背景に、ウクライナ全土を簡単に掌握できるという甘い考えで始めた」というものが、大半です。
 この見方は、大方の人間には心地の良いものです。なぜならプーチン大統領を愚かで凶悪な犯罪者とみなすことは、まるで臭いものに蓋をするように、受け入れたくない事実を自己から切り離す行為であり、これによって心理的な安全性が担保されるからです。

 しかし、ロシアの侵略行為を断罪することと別次元において、戦争の原因を多角的な視点から検討することは、今後、同じような悲劇を防ぐために必要なことでしょう。
 少なくとも、損益分岐点を基にした考察では、むしろプーチン大統領の判断は合理性に基づいたものであったと説明できます。

 まず基本的な事実として確認しておきたいのは、ウクライナ戦争に先立つ2014年に、ロシアがウクライナ領であったクリミア半島を併合しているという事実です。
 もしも、プーチン大統領がマスコミの報じるように「領土拡大の野望に取りつかれた楽観主義者」であるならば、この時点で一気にウクライナ全土の領有を目指したはずです。そうしなかったのは何故でしょうか。
 事実、このクリミア半島併合に危機感を抱いたウクライナが防衛力を整備したことが、ウクライナの善戦に繋がったという見方もあります。

 上記の事実はプーチン大統領がウクライナ侵略を、成功の可能性は高いものの、予想を上回る損失を被りかねない――期待値バンドの範囲内にある――戦略目標であると、正確に認識していた可能性を示します。


ロシアにとってウクライナは図上のOの位置にあると認識されていた可能性が高い。

 そこで、まず論を進める前に、前提条件として、ロシアにとってウクライナの戦略目標としての価値を確認しておきたいと思います。
 残念ながら筆者はロシアとウクライナについて生半可な知識しかなく、このあたりの事情については烏賀陽氏の非常に優れた記事を引用させて頂きます。

 記事によると、ロシアにとってウクライナは「特権的な利害を有する地域」とあります。
 つまりロシアにとってウクライナは(その是非はともかく)自国の勢力圏に留めておくべき、決して失ってはならない地域であったといえるでしょう。

 さて、ロシアがウクライナ侵略(及びクリミア半島併合)を決意したきっかけは、ウクライナにおける親欧米政権の発足とNATO加入とされています。

 これはロシアにとって、期待値バンドの左シフトを意味します。
 特にウクライナがNATOに加入してしまえば、ウクライナへの軍事侵攻はアメリカとの全面戦争を不可避とするため、期待値バンドからの完全な逸脱となります。ロシアの立場からすれば、これは容認できない事態です。

ウクライナがNATOに加入すれば、目標Oは完全にP’₂の外側に(手出しできない)なる

 ここで興味深いのはロシアの行動です。 
 ロシアは目前に迫った期待値バンドからのラインアウトの危機に際し、クリミア半島の併合という行動をとりました。

 つまり期待値バンドの範囲内にある戦略目標O(ウクライナ本土)ではなく、その左側に、より成功率の高い戦略目標O’を設定・実行することで、ロシアの軍事力の行使も辞さない決意(コミットメント)を示し、期待値バンドの左シフト(NATO入り)を食い止めようとしたわけです。


期待値バンドの左シフト食い止めるため新目標O’に軍事作戦を実施した

 しかし、その結果はご存知の通り、クリミア半島の併合は成功したものの、かえってウクライナ本土の愛国心を燃え上がらせ、親欧米的な勢力を生み出すこととなりました。
 結局、期待値バンドの左シフトの動きは止まらず、ついにプーチン大統領はウクライナそのものへの侵略を決意することとなります。

 このような見方は、プーチン大統領の「ロシアは追い詰められて仕方なく軍事侵攻を決意した」という主張と整合的なものです。


 
 つまり、損益分岐点の観点からロシアの動きを分析すれば「プーチン大統領はウクライナ侵略が決して簡単なタスクではないと認識していた。そのため期待値バンドの左シフトという事態に対処するため、よりリスクの低いクリミア半島の併合を行ったが、事態の好転には至らなかった。そこで、このまま座して待っていては、完全にノーチャンスになってしまうと考え、事態が楽観的なシナリオで進行することを期待して、軍事侵略を決意した。その結果、賭けに負けた」というのが、より納得のいく見方ではないかと考えます。
 ちなみに余談ですが、この内容は細部を四捨五入することで、「プーチン大統領は甘い見通しでウクライナに侵攻したものの、その期待は外れた」となり、主流なマスコミの見方となります。

中国の軍事侵攻を予想する

 それでは中国の台湾侵攻の可能性についても考えてみましょう。
 中国は台湾について「核心的利益」であると度々主張していますが、台湾を軍事戦略目標としてみた場合、その位置は図のどこにプロットされるでしょうか。

 実際に台湾侵攻が起これば、あらゆる要素が複雑に絡み合うため、予測シナリオもかなり幅広いものになるのですが、それでも日米の軍事関係者から中国勝利のシナリオが語られる現状も鑑み、期待値バンドの範囲内にあると仮定します。


中国の台湾侵攻はP₁とP₂の範囲内に位置すると仮定する


 一方で、ここ近年のトレンドとして、中国は高度経済成長を背景に、軍事力を増強させており、期待値バンドは長期的に右シフトの状況にありました。中国としては、決断を急ぐ必要はなかったでしょう。

 しかし、今後、中国は本格的な景気後退局面に入ることが予想されます。しばらくは大国の威信を賭けて、軍事費に優先的な予算を回すかもしれませんが、いずれそれも限界を迎えるでしょう。
 つまり、近い将来、期待値バンドは左シフト局面に入ることが予想されます。

景気後退に付随して、中国の軍事侵攻にかかる期待値バンドも左シフトする

 この時、ロシアの分析を敷衍して中国の動きを予測するならば、思わぬ損失を受けるかもしれない台湾侵攻よりも、期待値バンドの左側に目標O’を設定し、軍略的ポイントを稼いでおくことで、状況の打開を図ると考えるのは、決して不自然ではありません。

 この目標O’として、尖閣諸島が狙われる可能性を、筆者は強く危惧します。

中国は期待値バンドの左シフトに対して、ひとまず尖閣諸島への軍事侵攻を企てる

 その理由はいくつかありますが、筆者が思いつく限りで列挙してみます。

1.国是に掲げる台湾侵攻は、失敗すれば政権基盤も危うくするハイリスクな賭けだが、尖閣諸島であれば、まだしもダメージコントロールが可能である。

2.尖閣諸島は絶海の孤島であり民間人を巻き込む可能性がないため、国際的な非難も抑制できる。

3.ある種の威力偵察として、アジア地域におけるアメリカのコミットメントを確認できる。アメリカも本音では他国の領土防衛のために自国兵士の人命を損傷するのは馬鹿らしいと考えているため、中国の尖閣侵略(おそらく中国はなんやかんやと理由をつけて正当防衛を主張するだろうが)を静観する可能性は充分にありえる。そして、同盟国である日本の防衛義務ですら果たさないのであれば、アメリカが台湾侵攻を黙認する観測は高まる。

4.尖閣紛争で戦死者が出れば、日本の世論への影響は大きい。反戦気分が高まれば、台湾有事への参戦余力を削ぐことができる。

 このうち、特に問題なのが最後の項目で挙げた戦死者が日本の世論にもたらす影響です。
 これは、あまりに絶望的な見通しであるため、あえて触れないようにしている人が多いと思われるのですが、日本は人命コストが世界トップレベルで高い国家であるため、戦死者を伴う損失コストへの許容度はかなり低いものであると推測されます。

 護衛艦の乗組員は2~300人に及ぶので、一隻でも撃沈されれば、その多くが戦死します。これは近年の災害でいえば、能登半島地震による死者と同程度です。しかも本格的な戦闘となれば、戦闘機パイロットも含めて、さらに何倍ものの死者が出るでしょう。
 果たして、日本の世論は本当にこの現実に耐えられるでしょうか?

 そして、なにより戦死者が発生すれば、自衛隊の入隊者は激減することは必至です。たとえ防衛に成功しても、新しい隊員の獲得が滞る状況が続けば、数年以内に自衛隊は機能不全を起こすことになります。(なお愛国心が喚起されることで、若者の入隊が増える逆の可能性もないとは言えません)

 尖閣諸島は本来であれば期待値バンドの範囲内にある目標です。しかし上記のような見通しを、中国当局も当然持っているであろうことを考えると、「尖閣諸島」は最適な狙い目と見做されるかもしれません。

 そうなってくると中国としては、できるだけ勝ち目が高いうちに侵攻を試みるのがモアベターです。日本は軍事費を増大させ、中国の侵略行為に対して、実効的な防衛力を整備しようとしています。ところが皮肉なことに、損益計算の観点からは、その効果が高ければ高いほど、期待値バンドが左シフトすることになるため、中国の決断を促す効果を生むことになります。

 もちろん、ここに挙げたのは損益計算という限定された観点からの評価であるため、それをもって軍事費を増大させるべきでないという結論を導き出すべきではありません。
 しかし、あらゆる政策判断にはメリットとデメリットが存在するのであり、最終的な決断はその差し引きによって判断されるべきです。多角的な分析を行うことなく、中国の脅威が高まってるから、軍事費を増大させるべきという短絡的な思考は、かえって害が大きいのではないかと筆者は思います。

日本がとるべき防衛戦略について

 それでは日本は中国の脅威に対して、無為無策でいるべきでしょうか。

 実のところ、損益計算における有効な抑止力向上策とは、利益曲線の傾きを緩やかにするための取り組みにあるといえます。
 つまり、侵略国家が獲得領土に感じる価値そのものを低下させることができれば、その結果として期待値バンドは左にシフトします。

相対的な軍事力の増強だけでなく、利益を低下させることでも期待値バンドは左シフトする。

 そして、このようなアプローチの利点は「ピークアウトの罠」を避けるだけでなく、侵略国家として有効な対策が打ちにくいことにあります。

 戦略的にいえば、台湾防衛に効果的なのは、中国に対し「将来的に中国が民主的かつ自由主義を尊重する国家になれば、台湾の平和的統一を歓迎する。ただし武力行使は断固として許容しない」というメッセージを送り続けることです。
 あくまで現実主義に割り切って手段を選ばないのであれば、台湾に認知戦を仕掛け、同様の認識を台湾国民にも刷り込むべく努めるのがよいでしょう。

 おそらく、これを読んで憤慨される方は少なくないと思います。
 しかし、このメッセージは共産党上層部にとって、かなり悪質なものです。
 なぜなら政治改革によって台湾統一が可能な状況下において、強権的な権力を用いて、人命の損失を伴う軍事侵攻を選択することは、すなわち「権威主義体制は国民を不幸にする」という命題を自ら証明することになるからです。

 特に、前線で命を危険に曝すことになる兵士に対しては、軍事クーデターへの強い誘因を与えることになります。
 台湾統一という目標を達成するためには、国際的な制裁を受けながらアメリカとの全面戦争の危険を冒すより、北京政権を打倒し民主政権を打ち立てる方が、まだしも安上がりな選択かもしれないのです。
 そして、北京政権が「兵士がそのように予測するかも」と疑心暗鬼になれば、軍事オプションを選択する閾値は上昇することになります。

 筆者の主張が正しいかはともかく、現代社会の複雑な国際情勢に解を見つけようとすれば、まず目の前のパラダイムから抜け出そうとすることが必要なのではないかと思います。

 本当であれば、尖閣諸島を防衛するためのウルトラG作戦についても書きたかったのですが、長くなったので、ここで終わります。
 これまで、あまり数字を求めてこなかったのですが、最近はニーズにあわせて記事をアップするべきじゃないかと思っているので、尖閣防衛の記事についても読みたいという方は、スキかフォローで意思表示していただけると嬉しいです。
 
 それでは、ここまでお読みいただきありがとうございました。
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?